2025年7月31日
御理解第44節
狐狸(きつねたぬき)でさえ、神にまつられることを喜ぶというではないか。人は万物の霊長(れいちょう)なれば、死したる後、神にまつられ、神になることを楽しみに信心せよ。
初代金光教合楽教会長・大坪総一郎師ミニ御理解(昭和57年7月4日)
金光大神の道は、凡夫(ぼんぷ)の身そのままに神に至る道なり。
出家することもなく、修道院に入ることもなく、人間を幸福にせずにはおかんという神愛に触れながら・・・・・・。
その親神(おや)の思いにふれる時、いよいよ神の道をたどらずにおられない。
金光教亀有教会ミニ御理解
祈る、願う、拝む、改まる、道理を知る、善悪をわきまえる、他の人や生物を助ける・・・・・・等々、これらは人間だけに与えられた特権です。これが「人は万物の霊長」と言われるゆえんです。
「神にまつられ、神になる」とは具体的には、せっかく人間だけに与えられたこのような特権を宝の持ち腐れにせず、磨き高めていくことです。
2025年7月30日
御理解第43節
死んだからというて、神のおかげを受けずにはおられまいが。死に際にもお願いせよ。
初代金光教合楽教会長・大坪総一郎師ミニ御理解(昭和57年7月3日)
あの世、この世。
人の世、神の世。
人、人の世に生まれ、
人の世の
はかなさに目覚め、
神の世の
住人にならんと欲(ほっ)する時、
いよいよ御教えを
行ずる他に道なし。
この世はあの世のためにあるのです。
金光教亀有教会ミニ御理解
〝立つ人跡を濁さず〟
私は今日まで何人かの方のご葬儀を仕えてきましたが、ある方は亡くなる前日に病室から電話にて「今まで本当にありがとうございました」と病人とは思えないような力強く晴れ晴れとした声で御礼のお届けをされて旅立たれ、またある方は長年連れ添った奥様に満面の笑顔で大きく手を振って旅立たれました。どちらの方も死が目の前に迫っており体も大変衰弱している状態のはずでしたが、見事としか言いようがありませんでした。
死に際にも願えることもさることながら、信心者は美しい死に際のお繰り合わせも常日頃から願わせて頂きたいものです。
2025年7月29日
御理解第42節
これほど信心するのに、どうしてこういうことができるであろうかと思えば、信心はもうとまっておる。これはまだ信心が足らぬのじゃと思い、一心に信心してゆけば、そこからおかげが受けられる。
初代金光教合楽教会長・大坪総一郎師ミニ御理解(昭和57年7月2日)
『これ程信心するのに』というけれども、どれ程神様の仰せどおりにしているであろうか。
神様の仰せどおりにするのが「行」。それを頂き抜くところに金光教の行の原点がある。
『行』としての布教
神様の仰せどおりに行をされる金光大神。それが外に表出した時、他との摩擦現象を起こし、時には反発を受け嘲笑(ちょうしょう)をあびせられることもある。「他人(ひと)が嘲笑(わら)う。外見(ざま)がわるい」と奥様は反発された。
その事に対して、「私は、人のわまい(世間体)をかまわず、神の仰せどおり、なにかによらず、そむかず」と、そのご姿勢をくずされなかった。
そういう『行』を通して、いよいよご自身の神に向かう心、ゆるぎなき信心をふかく確認し、自覚せられる金光大神である。
(昭和五十七年七月一日金光教徒新聞論説より抜粋)
金光教亀有教会ミニ御理解
どうしてと思うこと自体は無理に押さえ込まなくてもかまいません。
合楽の初代親先生も弟君が終戦まであとわずかというところで戦死したことを知らされた時、「神様どうしてですか」と直談判をするような思いで御本部参拝をされました。しかし一晩中、ご祈念をこらしても神様からお知らせの一つも頂けるわけでもなし、その訳柄を聞くことはできぬまま帰りの汽車の時間になりました。その時ある方から「大坪さん、何かおみやげができましたか」と聞かれ、とっさに「はい、できました」と言った途端、なぜだか訳のわからないようなありがたさが込み上げてこられ、それまでのどうしてという思いは吹き飛び、そこからいよいよ初代親先生の信心が本調子を増していかれました。神様の心はわからなかったけれども、神様が初代親先生の心根をわかられたからでしょう。
どうしてと思うような理屈に合わないことを、理屈でわかろうとしても余計に苦しいばかりです。いったん理屈を外して、そこからまた神様に心を向けていくところから、理屈抜きの心とおかげが開けてくるのです。
2025年7月28日
御理解第41節
信心は話を聞くだけが能でない。わが心からも練り出すがよい。
初代金光教合楽教会長・大坪総一郎師ミニ御理解(昭和57年7月1日)
実意(じつい)とは
「守る」ということ
「守り通す」ということ
神の教えを守るということ
神の言うた通りにするということ
丁寧(ていねい)とは
「神に向かう」ということ
「その心(実意)が神に向かう」こと
神の言うた通りにするのが実意
神の心を尋ね尋ねするのが丁寧
実意丁寧とは真の御用
まこととは神の心を心とする生き方
金光教亀有教会ミニ御理解
信心は「ぱなし」のままでは能がない。わが心からも練り出すがよい。
勉強にしても、ただ聞きっぱなし、教わりっぱなしでは身についてこない。わからないところや疑問点などがあったら尋ねて確認したり、聞いただけでは不安だったら忘れないようノートに書き込んだり、赤線や付箋などの目印をつけたりといった、自分なりの工夫と精進、練り出しがいる。
信心にしても然りである。例えば「願う」ということにしても、ただ願いっぱなしにするのではなく、同時にその願いが成就するためにはどうあるべきかをわが心からも練り出していかねばならぬ。
何事も双方向、あいよかけよで成就していく。「ぱなし」にしては成就しない。
2025年7月27日
御理解第40節
重い物を負うておるか担いでおれば苦しいが、そうでないから信心は楽じゃ。家業を勤め勤めするがよい。
初代金光教合楽教会長・大坪総一郎師ミニ御理解(昭和56年7月31日)
徳川家康という人ハ、此の世を重い荷物を背負って山坂を登る様なものと人生をみています。
世の殆(ほとん)どの人は、正(まさ)にその通りだと思っています。
どんな重いものでも、楽しく有難く持って渡れる力を与えられる道を、金光大神ハ教えています。
しかも人間が人間らしく生きる手立てを、家業をつとめつとめ身につけてゆけるのです。
その気になれバ誰でもが頂けるのです。
金光教亀有教会ミニ御理解
今朝、先月白内障の手術を失敗された方が再手術を無事終えて御礼参拝に見えられました。話を聞いてみますと手術が失敗していなければ自分に合わないレンズを目に入れてしまっていたところを、失敗したおかげで成り行きの中で再手術前にそのことに気づかせて頂き、自分に合うレンズに変更することができましたとのこと。本当に畏れ入る思いがしました。
信心をしていると今まで重たくて持てそうもない、これは食べられそうもないと思っていたこと(難儀)が、だんだんそうではなくなってくることが増えてきます。それどころかむしろ、合楽教会の三代古典である「婿取り物語」のお話しではありませんが、このことを通して神様はこの先、どういうご演出を用意しておられるのか、どういうことを気づかせようとしているのかが、だんだん分かってくる、信じられてくる、楽しみにすらなってくるから楽になってくるのです。
2025年7月26日
御理解第39節
此方(このかた)の行(ぎょう)は水や火の行ではない。家業の業ぞ。
初代金光教合楽教会長・大坪総一郎師ミニ御理解(昭和56年7月30日)
家業の内容が行になるとき、家業により徳を受けてゆける道である。
勿論、内容は心行に通ずるものでなければならぬ。
合楽において表行全廃(わぎょうぜんぱい)のおかげをうける様になって七年、いよいよ「心行 信行 家業の行」に取り組むことになった時点より教会の比礼ハ倍増している。
ちなみに
火や水の行によるおかげは質屋で金を都合するようなもの。
心行、家業の行ハ自然の恵みで都合がつくようなもの。
金光教亀有教会ミニ御理解
生活のための信心から 信心のための生活へ
生業(なりわい)のための家業から 信心の行のための家業へ
合楽の初代と二代はこの「家業の業」をあえて「家業の行」と表現されていました。家業に打ち込む目的が生業のためでなく、信心の行のためであることを示されたかったからだと思います。
生業のための家業では 心はしんどく空しく腐す元となりかねず
信心の行のための家業なら 心は磨かれ育ち肥やす元となってくる
2025年7月25日
御理解第38節
垢離(こり)を取るというが、体の垢離を取るよりは、心の凝(こ)りを取って信心せよ。
初代金光教合楽教会長・大坪総一郎師ミニ御理解(昭和56年7月29日)
ここの青年会長、本日或(あ)る教会に御用の為参りましたところ、そこの教会長先生に合楽は金光教ではない等と、散々(さんざん)悪口を聞いて帰りました。
其の旨(むね)、神さまにお取次させて頂きましたら「この暑さで不快指数(ふかいしすう)が高い時でもあったろう、涼風を送ってやれ」と頂きました。
此の行き方でゆけば垢離(こり)を積むこともありますまい。
最後に「無駄な抵抗」とも頂きました。
金光教亀有教会ミニ御理解
「これはこうあるべき」とか「こうでなければならない」と決めつけて、そこから一歩も出ようとしない人があります。いかにも信念が強いようですが、それは反面、自らの心を凝り固まらせているようなものでもあります。
合楽の初代は以前は水垢離や断食などの表行※(わぎょう)をされていましたが、ある時から表行全廃を打ち出され、「表行をする者は破門にする」とまで変わっていかれました。教祖にしても以前は日柄方位を徹底的に守っていましたが、「日柄方位は見るに及ばず」と変わっていかれました。
成り行きは生き物のように日々移ろっていきます。信心も「これが本当」でとどまったり、凝り固まってはなりません。本当からより本当へ、今の本当から次の本当へと常に殻を破っていく姿勢がいります。
※表行(わぎょう)・・・何らかの形に表してなされる修行のこと。身体的苦痛を課すなどの修行を指していう。(『金光教教典用語辞典』より)
2025年7月24日
御理解第37節
生きておる間は修行中じゃ。ちょうど、学者が年をとっても眼鏡(めがね)をかけて本を読むようなものであろうぞ。
初代金光教合楽教会長・大坪総一郎師ミニ御理解(昭和56年7月28日)
「この世はあの世の為にあるのだから」の一言につきます。
難儀の元ハ神と氏子の間にはられた光明電線のようなものである。
有難く修行として受けてゆけば、光ともなり徳ともなるのです。
金光教亀有教会ミニ御理解
一見、当たり前のように感じますが、眼鏡をかけてでも本を読みたい、杖をついてでも歩きたい、そう思える心に尊さを感じます。年をとると何かと億劫(おっくう)になってきます。いくつになっても意欲を持ちたいものです。
お道の信心者に隠居や余生という言葉はありません。一生が現役です。信心はその気があれば寝ていてもできます。信心は心の修行です。心の修行に終わりはありません。
2025年7月23日
御理解第36節
日本国中のあらゆる神を、みな信心すると言うが、それはあまりの信心じゃ。人に物を頼むにも、一人に任すと、その人が力を入れて世話をしてくれるが、多くの人に頼めば、相談に暮れて物事はかどらず。大工を雇(やと)うても、棟梁(とうりょう)がなければならぬ。草木でも芯(しん)というたら一つじゃ。神信心もこの一心を出すと、すぐおかげが受けられる。
初代金光教合楽教会長・大坪総一郎師ミニ御理解(昭和56年7月27日)
八百萬(やおよろず)の神々と拝むはいかにも信心深いようでも、それハ螢の光を集めたようなもので、ボンヤリとあたりを明るくするにすぎない。
此方(このかた)一心と定めて拝むは火のついた線香(せんこう)のようなもので、紙(神)の裏表を焼き貫くことが出来る。
金光教亀有教会ミニ御理解
毎年、このミニ御理解づくりに取り組む中で痛感させられましたことは「言いたいことは一つに絞ること」です。あれもこれも言おうとすると、なかなか御理解がまとまらず時間もかかり、結局何が言いたいのか分からないことになってしまいやすいのです。反対に「今日はこれでいこう」というものが定まっていると簡潔明瞭、スムーズに御理解がまとまります。
何事も「このこと一つ」という芯を定めることですね。
心ひとつで すべてを創る
このこと一つが 総てをつくる
2025年7月22日
御理解第35節
信心は日々の改まりが第一じゃ。毎日、元日の心で暮(く)らし、日が暮れたら大晦日(おおみそか)と思い、夜が明けたら元日と思うて、日々うれしゅう暮らせば、家内に不和はない。
初代金光教合楽教会長・大坪総一郎師ミニ御理解(昭和56年7月26日)
『元日の心で』『大晦日と思ひ』、これが実行出来たら家内に不和もなかろう、おかげも受けるであろうと一応誰でも思うのですが、なかなか実行が出来ません。要ハ有難き、勿体(もったい)なき、恐れ多きの三喜(みき)がないからです。
養老の滝ではないですが、親の喜びを一心に願い、心にかけておれば、神さまが与えて下さるのが有難しの心です。
不思議に有難しの心があれバ普通できないことも楽に有難く出来るものです。
金光教亀有教会ミニ御理解
「今が佳境」
過去を悔やまず
未来を案じず
今を努める
お道の信心は「今月今日(こんげつこんにち)」の精神が要です。
2025年7月21日
御理解第34節
ここへ参っても、神の言うとおりにする者は少ない。みな、帰ってから自分のよいようにするので、おかげはなし。神の言うことは道に落としてしまい、わが勝手にして、神を恨(うら)むような者がある。神の一言は千両(りょう)の金にもかえられぬ。ありがたく受けて帰れば、みやげは舟にも車にも積めぬほどの神徳がある。心の内を改めることが第一なり。神に一心とは迷いのないことぞ。
初代金光教合楽教会長・大坪総一郎師ミニ御理解(昭和56年7月25日)
信心させて頂くものとして大切なところをみ教え下さってあるのです。
心の内を改めることの大切さ、教えを守らねばならぬこと、神に一心とは迷いのないこと等々。
神徳の
めぐみのなかに
かみありて
うじこありての
しんじんしんとく
金光教亀有教会ミニ御理解
成り行き(神様)を我(わ)が勝手に都合の良いように当てはめようとしたり、都合の悪い部分にはフタをしようとしたりする者がある。「良薬は口に苦し」「忠言は耳に逆らう」というが、口に苦く耳が痛い成り行きの中にこそ、氏子育ってくれよとの神様の願いと本音が込められている。
「土産(みやげ)」は土(どろ)が産まれると書くが、我(が)の心を産み出すのでなく、土(どろ)の心を産み出すことが第一なり。成り行き(神様)を我(わ)が都合に当てはめず、我(われ)を成り行きの都合に合わせていけば千両の金にもかえられず、舟にも車にも積めぬほどの「土産(みやげ)」がついてくる。
