2020年7月11日~21日

2020年7月11日

御理解第53節

信心すれば、目に見えるおかげより目に見えぬおかげが多い。知ったおかげより知らぬおかげが多いぞ。後で考えて、あれもおかげであった、これもおかげであったということがわかるようになる。そうなれば本当の信者じゃ。

初代金光教合楽教会長・大坪総一郎師ミニ御理解(昭和52年7月5日)

『彼(あれ)もおかげであった、此(これ)もおかげであったと云(い)う事が了解(わか)るようになるさうなれば真実(ほんとう)の信者じゃ』と仰せられるのであるから、真実の信者を目指さねバならぬ。それには最低の自分を発見することである。
「一切がおかげ」の実感がしみじみとわいてくる。 

金光教亀有教会ミニ御理解

「知ったおかげよりも知らぬおかげが多い」ということは、裏を返せば「知ったお粗末ご無礼よりも、知らぬお粗末ご無礼が多い」とも言えます。この「知ったお粗末ご無礼よりも、知らぬお粗末ご無礼が多い」ことが見えてくることによって、 「知ったおかげよりも知らぬおかげが多い」ことも見えてくるのです。つまりこの両面が足ろうて「本当の信者」ということになってくるのです。
 
合楽初代が「最低の自分を発見すること」と教えられる所以です。
 
2020年7月12日
 

御理解第54節

徳のないうちは心配する。神徳を受ければ心配はない。

初代金光教合楽教会長・大坪総一郎師ミニ御理解(昭和52年7月6日)

損得を任せ、生死までも神さま任せになれた時の状態が『心配はない』の時である。
神徳を受けるということは、神を信じ神に信じられる事である。私共の場合あまりに心配なことが多い。
そこに信心の精進が求められるのである。不思議に不安から安心の世界が開かれ、闇の世界から光明の世界に移り住むことが出来る。既(すで)に神徳の世界である。 

金光教亀有教会ミニ御理解

誰も心配がしたくて心配をしているわけではない。なのに心配してしまう。自分の心は自分で、どうこうできるものでもないからである。神様の働きを頂かねば、自分自身の心すらもどうにもならないのである。
心配は消そうとしても消えるものではないが、心配にとらわれなくなれば、それはもう心配ではなくなる。自分の無力を悟り、神様に無条件降伏することが心配にとらわれなくなるための第一歩
 
「心配(しんぱい)する暇があるなら、神拝(しんぱい)せよ」
 
2020年7月13日
 

御理解第55節

賃を取ってする仕事は、若い時には頼んでもくれるが、年をとっては頼んでくれぬ。信心は、年が寄るほど位がつくものじゃ。信心をすれば一年一年ありがとうなってくる。

初代金光教合楽教会長・大坪総一郎師ミニ御理解(昭和52年7月7日)

信心ハ我(が)をとる稽古(けいこ)である。我があるとおかげハ受けても有難くもなれない、徳も受けられぬ。
信心しておっても我をとる精進に気を入れない限り、我が有難いものを吸いとってしまう。
有難い心が育たぬとするならば、我が邪魔(じゃま)になっておると悟(さと)らねばならぬ。
我ほど自分を苦しめるものはない。

金光教亀有教会ミニ御理解

ありがたいと思えるだけでもかけがえのないことですが、ありがたいと思う心の中に常に神様を据えていくことが、一年一年積み重ねられていくありがたさ、年が寄るほど位がついてくるようなありがたさへとつながっていくのです。あなたのありがたいという思いに天地(神様)も寄り添ってくださるようになるからです。

ありがたいと思えるそのこと自体も神様のおかげを頂いてこそのものですから。
 
2020年7月14日
 

御理解第56節

日にちさえたてば世間が広うなってゆく。ひそかにして信心はせよ。

初代金光教合楽教会長・大坪総一郎師ミニ御理解(昭和52年7月8日)

『世間が広うなって行く』と同時に自分(みずから)の心を寛く大きくして行く事である。ひそかに信心の喜びの泉をつくることである。
いたずらに、ただ日にちが経(た)って忘れていくだけでハ、勿体(もったい)ないことである。

  ひとりわが道をゆく

金光教亀有教会ミニ御理解

このお道は派手に華々しく開かれていく道ではない。静かに粛々と開かれていく道である。
 
  陽徳よりも陰徳を積んでいく心持ちで
 
2020年7月15日
 

御理解第57節

金の杖(つえ)をつけば曲がる。竹や木は折れる。神を杖につけば楽じゃ。

初代金光教合楽教会長・大坪総一郎師ミニ御理解(昭和52年7月9日)

今の社会ハ闇の世です。今ほど真(まこと)の光を求められている時はありません。
『神を杖(つえ)につけば楽ぢゃ』と教祖は教えておられますが杖に出来る神がすくない。巷(ちまた)に氾濫(はんらん)している神々では杖にも光にもなりません。
宗教とは読んで字の如(ごと)く、宇宙(天地の親神様の意)が示すことを教える宗教でなければ真実、光にも杖にもなりません。

金光教亀有教会ミニ御理解

今日のミニご理解を綴(つづ)るにあたり、似たようなみ教えとして「建てた柱はたおれることがあるからのう。つったのれんにもたれる心になっておかげを受けなさい。」という教祖様のみ教えがあったなあと心に頂きました。
そうしたら間髪入れず、ある方からお届けの電話が入りました。深刻な内容のお届けでありましたが、話の中で『「七福ろう神」と描かれた、七福神の姿をしたフクロウののれんがかかっていて、それがすごく心にとまりました。』ということを話されました。
恐れ入ると同時に、この成り行きを通していよいよ改っていこうと、少し心を向けるだけで神様が今の苦労(修行)を「不苦労(フクロウ)」にしてくださると確信しました。
「神を杖に」ということは、こうした成り行きを頂いていけること、またそれを神様の働きと信じて、もたれていけということではないでしょうか。
 
※合楽教会の初代は漢数字の「七」について、釣り針のような、ちょっと尖った部分をまっすぐにすると十(プラス、十全)になるということを神様から頂かれ「改まり」と説かれました。
 
2020年7月16日
 

御理解第58節

人が盗人(ぬすびと)じゃと言うても、乞食(こじき)じゃと言うても、腹を立ててはならぬ。盗人をしておらねばよし。乞食じゃと言うても、もらいに行かねば乞食ではなし。神がよく見ておる。しっかり信心の帯をせよ。

初代金光教合楽教会長・大坪総一郎師ミニ御理解(昭和52年7月10日)

念ずるとは今の心と書いてあります。
今を心にかけるということは心に神を頂くということ、つまり心行そのものです。腹を立てておる内容をよくよくしらべてみると、御礼を申し上げることに気づきます。
久留米の今村アサエさんが今日の夏期信行にバスで参拝の途中、車の中で息子さんの事でちょっと不足を思いながら、そのままウトウトしておられましたら、お夢の中で大きな建物がガラガラと音を立ててくずれるところを頂かれたそうです。
腹を立てたり不平不足を言うことは折角(せっかく)のおかげをこわしてしまいます。

金光教亀有教会ミニ御理解

打ち向かってくる者には負けておいた方がよい。まとも相手にしても「信心の帯」を締めることにはなっていかない。それどころか腹立ちや強情を出せば心に凝りを残したり、失ったりするものの方が大きい。
相手にすべきは人ではなく、その腹立ちや強情という自らの心の中にある鬼の方である。人には負けて、この心の鬼にこそ打ち克(か)つようつとめよ。
 
この神様は「負けて勝たしてくださる神様」と言われる道理がわかってくる。
 
2020年7月17日
 

御理解第59節

習うたことを忘れて、もどしても、師匠(ししょう)がどれだけ得をしたということはない。覚えておって出世をし、あの人のおかげでこれだけ出世したと言えば、それで師匠も喜ぶ。おかげを落としては、神は喜ばぬ。おかげを受けてくれれば、神も喜び、金光大神も喜び、氏子も喜びじゃ。

初代金光教合楽教会長・大坪総一郎師ミニ御理解(昭和52年7月11日)

育つ働きと育てる働きが相まってゆく限り自他共に助かり、神も助かり氏子も立ち行くおかげが開けてくるはずなのに、どの辺から間違うのか『神も喜び金光大神も喜び氏子も喜びぢゃ』ということになっていない。
育てる者も育たねばならぬ。育てる者の深く反省せねばならぬところです。信者もおかげを受けることのみに終始せず、共に育たねばならぬ。
合楽で言う『五つの願い』が成就することは、神の願い、氏子の願いが成就することになる。

家族勢を揃えて、どうでも願わねばならぬ事

  五つの願い
一、体の丈夫
二、家庭の円満
三、子孫繁昌、家繁昌
四、真実の御用が出来ますように
五、神さまの願いが成就しますように、即ち和賀心時代を創ることの為の御用に役立たせて下さい。


金光教亀有教会ミニ御理解

どんなことでも習いっぱなしでは身にもつかないし、放っておいたら忘れてしまう。勉強にしても習ったら復習をし、それがどれほど身についたか都度都度、試験も受けなければならない。神信心も同じこと。「五つの願い」と共に「五つの行」を毎日、奉体していくことが「覚えておって出世をし」ていくことであり、「おかげを受けて」いくための絶対条件となる。

「奉体」・・・うけたまわってよく心にとめ、また、実行すること。(『広辞苑』第二版補訂版)
 
毎日欠かさず、どうでも貫かなければならぬ事
 
五つの行
一、日参
(毎日参拝。教会に参拝できなくても参拝した心づもりでお賽銭の一つも添えて家のご神前に向かわせて頂くこと。)
二、聴教
(教えを聴く。教えを聴けない場合は教典等を開かせて頂き、その頁に書かれていることをその日一日の教えとして守り頂く。)
三、信行
(御祈念もしくは拝礼を朝昼晩、一日最低三回。忙しいときは心の中でかまわない。)
四、心行
(玄関の靴をそろえたり、トイレ・お風呂などの後は他の人が使いやすいようにしておく等、その気になれば子供でもできるような心の行をきめ細やかに黙って実践していくこと)
五、家業の行
(分相応を過ぎず、人を不足に思わず、物事に不自由を行として家業を務めていくこと)

2020年7月18日

御理解第60節

おかげは受け徳、受け勝ち。

初代金光教合楽教会長・大坪総一郎師ミニ御理解(昭和52年7月12日)

先生が先(ま)ず、おかげをうけて見せねばならぬ。先ずハ徳を受けることが先決で、徳を受けた者には勝てません。
受け徳のおかげを頂くために、神さまをむしるようなことをせず、信者をむしるようなことをせず、自分自身をむしる気で信心してゆけバ徳が受けられる。

 〇 おかげは押しやり修行は受け身
 〇 魚釣(つ)る人見ている人

天地は限りなく与えようとなさる。
受ける方に姿勢がいる。
見ているだけでは受けられぬ。

金光教亀有教会ミニ御理解

「おかげをください」と願う私たち、「おかげを授けたい」と願われる神様。しかし同じ「おかげ」でも、私どもが思う「おかげ」と神様が思われる「おかげ」との間に大きな隔たりがありはしまいか。
この御理解は一般的に言われるような「おかげ」、つまり自分にとって都合の良いことがじゃんじゃん受けられるようになるということを意味しているわけではない。またのみ教えに「あれもおかげであった、これもおかげであったということがわかるようになる。」とあるように、信心すれば私たち自身の「おかげ」に対する概念や捉え方が広く大きくなっていき、ひいてはそれがお徳を受けていくほどのことにもつながっていくということを意味している。つまり「受け徳、受け勝ち」とは、お互いの「心の受け物徳、受け物勝ち」ということである。
 
信心していて「おかげ」に対する概念や捉え方が全然広がっていかないのだとしたら、それは的外れの信心と心得、教えの頂き直しが必要です。
 
2020年7月19日
 

御理解第61節

神より金光大神に、いつまでも尽(つ)きぬおかげを話にしておくのぞ。信心しておかげを受けたら、神心となりて人に丁寧(ていねい)に話をしてゆくのが、真(まこと)の道をふんでゆくのぞ。金光大神が教えたことを違(ちが)わぬように人に伝えて真の信心をさせるのが、神へのお礼ぞ。これが神になるのぞ。神になりても、神より上になるとは思うな。

初代金光教合楽教会長・大坪総一郎師ミニ御理解(昭和52年7月13日)

形のおかげがついて来るほどの心の助かりに、尽きぬおかげが頂ける。
梅の花が馥郁(ふくいく)とした香りをただよわせながら花を咲かせるように、自然に鶯宿梅(おうしゅくばい)の働き、即ち頼まんでも現われるようなおかげを人に伝えるならば伝わらぬはずはない。
神願成就ということは人間が助かるということが第一です。これが神様への第一の御礼にもなるのです。
このような信心が徳を受けることになるのです。
『これが神になるのぞ』にもつながることです。

金光教亀有教会ミニ御理解

「話をしてゆく」こともさることながら、「話を聴いてゆく」こともまた大事です。特に今の時代は・・・。これだけ情報や通信が発達しているのに家族や友人にすら話をできずに苦しんでいる人がたくさんいます。人に話をしてゆく前に、まずはそれ以上に人の話を聴かせて頂くことです。
 
「聴くこと 聴くこと 話を聴くこと」
 
2020年7月20日
 

御理解第62節

昔から、人もよかれわれもよかれ、人よりわれがなおよかれというておるが、神信心をしても、わが身の上のおかげを受けて、後に人を助けてやれ。神信心も手習いも同じこと、一段一段進んでゆくのじゃ。にわかに先生にはなれぬぞ。

初代金光教合楽教会長・大坪総一郎師ミニ御理解(昭和52年7月14日)

信心による助かりとは、心安らぎ心豊かになること。『我身(わがみ)の上のおかげを受けて』ということハ、このようなおかげを言うのである。悲しみの中にも喜びの中にもこの歓(よろこ)びが湧(わ)いてくる。
水は低きに火は上に。これハ天地の道理である。道理に従うからその折々のリズムが生まれてくる。
神の神用(しんよう。神に用いられるの意)もついてくる。神様に使ってもらわねバ人は助からん。お役に立ちたいの一念が神様への情念と変わる。

金光教亀有教会ミニ御理解

【人助けのための三要素】
 
「信心なかりせば今の自分はない」という実感
 
「生かされて生きている」ことへの感謝
 
「このご恩に報わずにはおられない」という情念