2020年7月21日~31日

2020年7月21日

御理解第63節

一粒万倍といおうが。一人がおかげを受けたので千人も万人もおかげを受けるようになるから、よい手本になるような信心をせよ。

初代金光教合楽教会長・大坪総一郎師ミニ御理解(昭和52年7月15日)

『手本になるような信心』とは、どんな苦しい時でも、神愛を思うたら有難涙(ありがたなみだ)がこぼれるような、どんな場合でも神にお礼が言えるような信心である。それが出来たら『一粒(りゅう)万倍』のおかげが受けられる。

渋柿(しぶがき)は 皮をむかれて
  つるされて
 白粉ふきつつ 甘くなる哉(かな)

問題ハ皮をむかれるとき、つるされながら渋がぬけてゆくとき、神の心の奥がわかるとき。

金光教亀有教会ミニ御理解

一粒が万倍にもなることがあるならば、万が一になることもある。
万事にこの両面があることを忘れず、一事を大切に信心することが「良い手本になるような信心」のもとである。
 
2020年7月22日
 

御理解第64節

此方(このかた)は参ってたずねる所がなかった。氏子はおかげを受けて遠路のところを参って来るが、信心して徳を受けて、身しのぎをするようになれ。

初代金光教合楽教会長・大坪総一郎師ミニ御理解(昭和52年7月16日)

求めているものが与えられない淋(さび)しさ、悲しさ。時には腹立たしくなることさえある。
我が身の不徳を悟(さと)り、信心の奥処(おくが)を尋ねたずねして行くうちに心も開け(心眼)求める以上、願う以上の夢にも思わなかったおかげの世界に住むことが出来るようになる。
『信心して徳を受けて身凌(みしのぎ)をするやうになれ』とはこのような事をいうのである。

金光教亀有教会ミニ御理解

「訪ねる」・・・おとずれる。訪問する。
「尋ねる」・・・①質問する。②求める。探す。
 
この御理解でいう「参ってたずねる」の「たずねる」は、「訪ねる」ではなく「尋ねる」ということを現しているように思います。つまり教祖様は参る場所はあったけれども、話をきいてもらったり、どうすればよいかを伺う場所がなかったということです。
 
教会は「参る場所」であると共に「尋ねる場所」でもあります。参るだけでは片手落ちです。どうぞ尋ねてきてください。尋ねていくことが徳を受けることにも、身しのぎをすることにもつながっていくのです。
 
2020年7月23日
 

御理解第65節

日柄(ひがら)方位は見るにおよばぬ。普請(ふしん)作事は、使い勝手のよいのが、よい家相じゃ。よい日柄というは、空に雲のない、ほんぞらぬくい、自分に都合のよい日が、よい日柄じゃ。いかに暦(こよみ)を見て天赦日(てんしゃにち)じゃと言うても、雨風が強うては、今日は不祥(ふしょう)のお天気じゃと言うではないか。日のお照らしなさる日に良い悪いはないと思え。

初代金光教合楽教会長・大坪総一郎師ミニ御理解(昭和52年7月17日)

金光教の信心をさせて頂くものには日柄もなけれバ方位もない。鑑札(かんさつ・免許証)を持って車に乗るようなもの。無鑑札で乗るから日々が不安であり、ビクビクで過ごさねばならぬ。実は日柄も方位も人間の心がつくるもの。御取次を頂いての日々は有り難く又楽しいものである。
信心させて頂く者にとっては毎日が天赦日(てんしゃにち)である。

金光教亀有教会ミニ御理解

日柄方位と言うと現代人はあまりピンとこないかもしれませんが、今の世の中にも日柄方位思想と同じようなことはあちこちにあふれています。今年のように、思いもよらぬようなことが起こったときは特にそうです。トイレットペーパー等があっという間に品薄になったり、花崗岩が高額で販売されたり等はまさに「現代的日柄方位思想」そのものです。様々な情報があふれる現代だからこそ、人間が勝手にこしらえた「見るにおよばぬもの」「根のないもの」にとらわれないようにしたいものです。
 
日々、五願五行を実践し、何事も御取次を頂いていく姿勢でいれば、とらわれることもなければ振り回されることもありません。
 
2020年7月24日
 

御理解第66節

人間は勝手なものである。いかなる知者も徳者も、生まれる時には日柄も何も言わずに出てきておりながら、途中(とちゅう)ばかり日柄が良いの悪いのと言うて、死ぬる時には日柄も何も言わずに駆(か)けっていぬる。

初代金光教合楽教会長・大坪総一郎師ミニ御理解(昭和52年7月18日)

神ながらに生まれ
神ながらに生き
神ながらに死ぬ
信心者の一生ハ
かくおかげを受けたいものである

出物腫物(でものはれもの)所きらわずと言うが、信心して居れば所をきらわして下さる神さま。
生きるも死するもおくり合わせを願え。

金光教亀有教会ミニ御理解

どんな日柄であろうが良いと思えるなら、すべての日柄が良い日柄になり、この日柄は良いがこの日柄は悪いと思うなら、良いと思える日柄も含めてすべて悪い日柄になると心得よ。

2020年7月25日

御理解第67節

何事もくぎづけではない。信心をめいめいにしておらねば長う続かぬ。

初代金光教合楽教会長・大坪総一郎師ミニ御理解(昭和52年7月19日)

目の見えない人、耳が聞こえない人、人それぞれ様々なれば、各自(めいめい)その自覚に立って信心せねバならぬ。目が見えないため、かえって目明きが不自由に見えるほどの勘(かん)も強くなり、耳が聞こえないために人の心を読むことが誰よりも的確になるようなもの。
それぞれ身にもてる力が充分発揮できるよう精進が肝心。いよいよ極めにきわめてゆくことが楽しゅうなり有り難うなることにつとめねばならぬ。

金光教亀有教会ミニ御理解

今こそ、この御理解が現実味を帯びている時ではないでしょうか。以前のような形での参拝や祭典もままならない中、信心も「くぎづけ」のままでは「長う続」きません。何事においてもそうですが、一工夫も二工夫も、一練り出しも二練り出しもしていこうとする姿勢が求められます。
 
今まさに「信心をめいめいにしておらねば」ということが試されています。
 
2020年7月26日
 

御理解第68節

神参りをするに、雨が降るから風が吹(ふ)くからえらい(疲れる・しんどい)と思うてはならぬ。その辛抱(しんぼう)こそ、身に徳を受ける修行じゃ。いかにありがたそうに心経(しんぎょう)やお祓(はらい)をあげても、心に真(まこと)がなければ神にうそを言うも同然じゃ。拍手(かしわで)も、無理に大きな音をさせるにはおよばぬ。小さい音でも神には聞こえる。拝むにも、大声をしたり節をつけたりせんでも、人にものを言うとおりに拝め。

初代金光教合楽教会長・大坪総一郎師ミニ御理解(昭和52年7月20日)

辛抱(しんぼう)というても信心辛抱でなからねバならぬ。
その内容が心の内を改めるであり、清めるでなけれバ『身に徳を受ける修行じゃ』にならぬ。
生活そのものが改まり清まるおかげを受けねバ『神に虚言(うそ)を云(い)ふも同然じゃ』ということになる。

  形だけの信心でハおかげだけ
  心からの信心に徳がうけられる

金光教亀有教会ミニ御理解

神はただただ氏子の実意と真、そして辛抱を見届けられる。
いらぬ脚色や演出で、かえって神を欺(あざむ)くことのないようにしたい。
 
2020年7月27日
 

御理解第69節

信心はみやすいものじゃが、みな氏子からむつかしゅうする。三年五年の信心では、まだ迷いやすい。十年の信心が続いたら、われながら喜んで、わが心をまつれ。日は年月のはじめじゃによって、その日その日のおかげを受けてゆけば立ち行こうが。みやすう信心をするがよいぞ。

初代金光教合楽教会長・大坪総一郎師ミニ御理解(昭和52年7月21日)

ご参拝の時間が惜しい、お賽銭(さいせん)が要るという人には信心ハ難しい。
神さまが参らせて下さる、お供えもさせて下さるということがわかれば、信心は容易(みやす)いだけでなく有難いものになる。
このような信心が十年も続いたら、間違いなく我が心がまつれるようになる。
このような信心生活が出来ておると他(ほか)の真似(まね)の出来ぬような、大きな、然(しか)も勿体(もったい)ないようなその日暮らしが出来るようになる。

金光教亀有教会ミニ御理解

神様のご計画はわれわれ凡人には計り知れない。すぐに腑(ふ)に落ちることもあれば、何年何十年と経って見えてくることもある。
先々のことを考えることも大切なことではあるが、苦に病むほどには考えるなよ。先々のことを考え過ぎて今が立ち行かなくなっては本末転倒。何事も過ぎると毒である。先々があって今月今日(こんげつこんにち)があるのではない。今月今日の積み重ねが先々へとつながるのである。このお道は思い通りではなく、思い以上のおかげを頂いていくお道だからである。
 
「今月今日」・・・まさに、今日この日の意。そして、それが最も大切な改まった日、吉日であることを示す。(『金光教教典用語辞典』より)
 
2020年7月28日
 

御理解第70節

人間は万物の霊長(れいちょう)であるから、万物を見て道理に合う信心をせねばならぬ。

初代金光教合楽教会長・大坪総一郎師ミニ御理解(昭和52年7月22日)

金剛(こんごう)石も磨(みが)かねば玉の光ハ出ません。
万物の霊長と言うても霊長としての値打ちを発揮するにハ、天地の道理を見極め、道理に従い、改め研(みが)きしての生活にならねバなりません。
教祖金光大神様ハ、天地の親神さま直伝(じきでん)の深遠にして広大な教えをもって、誰にもわかるように説き示されました。

金光教亀有教会ミニ御理解

教祖さまは人間はこの世に生を受けるとき、神様から霊を分け与えられて生まれてくると説かれました。言うなれば神性ということであり、それは誰しもが持っているものでもあります。しかし、 しかしせっかくのその神性も磨かなければ光りません。宝の持ち腐れとなってしまいます。
 
親先祖を大切にし、日々、起きてくる酸(す)いも甘いも合掌して頂いていくことが「万物を見て道理に合う信心」ということであり、神性を磨き、清めていくという中身となります。
 
2020年7月29日
 

御理解第71節

ここへは信心のけいこをしに来るのである。よくけいこをして帰れ。夜夜中(よなか)、どういうことがないとも限らぬ。おかげはわがうちで受けよ。子供がある者や日傭取(ひようと)りは出て来るわけにはゆかぬ。病人があったりすれば、捨てておいて参って来ることはできぬ。まめな時ここへ参って信心のけいこをしておけ。

初代金光教合楽教会長・大坪総一郎師ミニ御理解(昭和52年7月23日)

天地の道理をあらゆる角度より、余すことなく説きあかしてあります。
楷書(かいしょ)で書き、ある時は行書(ぎょうしょ)又ハ草書(そうしょ)で書くように、稽古(けいこ)次第で自由自在にいただけるように説かれています。
限りないおかげの世界に有り難く楽しく遊ぶ心地(ここち)で導き入れずにはおきません。
尽きぬみかげを永遠(とわ)に頂ける確信が、心の底から泉のように湧(わ)いてまいります。『まめな時ここへ参って信心の稽古をしておけ』とは、なんでもない時、不断の精進を強調しています。

金光教亀有教会ミニ御理解

「信心のけいこ」の場が「教会」であるなら、「信心の本番」の場はそれぞれの「生活の現場」ということになります。しかし、それを逆のように勘違(かんちが)いしている節(ふし)はないでしょうか。教会でもっともらしく振る舞っても、教会から離れたら我(が)がムクムクと出てくるようでは主客転倒です。
 
けいこ場(教会)でしくじる分にはいっこうに響かぬが、本番(生活の現場)でしくじるのは大きく響く。
 
2020年7月30日
 

御理解第72節

人間を軽う見な。軽う見たらおかげはなし。

初代金光教合楽教会長・大坪総一郎師ミニ御理解(昭和52年7月24日)

人間を軽う見られぬように、言うことなすことに心しなけれバなりません。
軽う見られることは軽う見た人が『おかげはなし』ということになるのですから慎(つつし)まねバなりません。
他人(ひと)が軽う見える時には自分を尊大(そんだい)に思って居る時です。
自他共の助かりの為にも他人を神の氏子と見、自分を屑(くず)の子と見ることです。

金光教亀有教会ミニ御理解

軽う見てはならぬのは人間だけではありません。ご神体である天地の間にあるすべてのもの、すべての事柄を軽く見てはなりません。
 
その昔、合楽の初代夫人がある信者さんにカビの生えた餅の切りくずを「あんたん方の豚になっとんやってくれんの(あなたのところの豚にでもあげといて)」と言って渡し、その信者さんが豚に食べさせたら名豚と評判だったその豚がコロッと死んでしまったそうです。合楽初代がそのことを神様にお伺いすると「豚になっとんやってくれんのということが神の機感(心)にかなわない」と頂かれました。
 
軽う見るということ自体が御神意にかないません。
 
2020年7月31日
 

御理解第73節

変人になれ。変人にならぬと信心はできぬ。変人というは、直いことぞ。

初代金光教合楽教会長・大坪総一郎師ミニ御理解(昭和52年7月25日)

ここで変人と言うのは、真実(ほんとう)のことをわかろうと意欲してつとめる人を言うのです。
人間の身体の中にも「感じる」ところと「感じない」ところがあるように、神さまは真(まこと)の変人ぶりを発揮する人間に感じなさる。

金光教亀有教会ミニ御理解

人間は無様なほどにでも何事も真剣な方が良い。そういう人は時に笑われたり、からかわれたりすることもあるが、神は笑う側の人間よりも無様なほど真剣に生きる人間の方に感じ入られる。
 
器用に上手に賢(さか)しく生きようとするな。無様なれど滑稽(こっけい)なれど真剣であれ。素直であれ。直向(ひたむ)きであれ。
 
「馬鹿と阿呆で道を開け。道は神が開く。」(金光四神様のお言葉)