2022年7月01日~10日

2022年7月10日

御神誡

一 信心する人の真の信心なきこと。

初代金光教合楽教会長・大坪総一郎師ミニ御理解(昭和53年7月14日)

一事が万事に円(まる)くまるく治めていく精心(精進)こそは、和賀心を基軸にしての信心生活です。
間違いなく真(まこと)の道を行くのであると同時に、真の信心を目指すことになるのです。
答は真のおかげとなって示し現されます。

金光教亀有教会ミニ御理解

「磨き改まる」ということを根として、
「成り行きを尊ぶ」という幹を太くし、
「天地日月の心」「和賀心」「一切神愛」という枝葉を茂らせる。

これが私が習い教わってきた真の信心の中身です。
それぞれに「真の信心観」というものがあると思いますが、金光教の信心は目指すところ、行き着くところは天地書附であり、おかげは和賀心にありに極まってこなければなりません。

2022年7月9日

御神誡

一 まめな時家業をおろそかにし物毎におごること。

初代金光教合楽教会長・大坪総一郎師ミニ御理解(昭和53年7月13日)

   耳かきの ありてかりけり 日向(ひなた)ぼこ

休息と「疎(おろそ)かにする」とは、自ずと意味が違います。
許されての楽には御礼が言える。
その心に神も一緒に和し給う、そこに和楽の歓(よろこ)びがある。
許されての自由、日と光の旋律(せんりつ)、縛(しば)られることのない、金光大神の無碍(むげ)の世界「晃(あかるい)」世界が開かれる。

金光教亀有教会ミニ御理解

アリとキリギリスではないが、不断(普段)の信心がいざという時にものをいう。

2022年7月8日

御神誡

一 物事(ものごと)に時節を待たず苦をすること。

初代金光教合楽教会長・大坪総一郎師ミニ御理解(昭和53年7月12日)

 すみれつむ子に野の道問えば
      わしの行く手を花で指す

天地自然が奏でる音律は、不断に人間氏子の幸せへの真の道を指し示している天然のリズムがあります。
そのリズムにのっての生き方を体得するのが信心です。
いよいよ成行きそのものを大切に、天地との関係(かかわり)合いを心で肌で感ずるフィーリングを育てて行きたいと患います。

金光教亀有教会ミニ御理解

時節とは「時刻表なき遠方行きの成り行き電車」を駅のホームで待つようなもの。早く行きたくても電車が来るまで待たなければ目的地には到底行けませんし、反対に電車が来ているにも関わらず、それに乗れなかったら次の電車はまたいつ来るかわからないのです。急いても仕方がありませんし、だからと言ってボーッとしていたり、待ちきれずにフラッとどこかで油でも売っていたりしようものなら乗りそびれてしまいます。

電車が来るその時まで待てる構え、そして電車が来たらパッと飛び乗れる構えをつくっていきたいものです。

2022年7月7日

御神誡

一 人の不行状(ふぎょうじょう)を見てわが身の不行状になること。

初代金光教合楽教会長・大坪総一郎師ミニ御理解(昭和53年7月11日)

(どろ)の信心でゆきたい。
何を見ても聞いても、すべてを心の根肥やしにしてゆけば、見事な、カラフルな生活が出来るようになる。
「夜叉(やしゃ)の面を見ては胎教(たいきょう)に悪い」と言う夫に対して、妊娠中の女房言うに、「吾が心の中に、あのような恐ろしき心ハなきか、と毎日反省の素(もと)にして居ります」と・・・・・・。

金光教亀有教会ミニ御理解

「悪いことだとわかっていても・・・」
人間は染まりやすく、流されやすい生き物である。自分ではどんなに気をつけているつもりでも、あられぬ方向にズルズルといってしまうこともある。
常に教祖の教え、生き方を鏡とし、取次を頂いていくことである。信心と取次は「わが身の不行状」への傾倒を止める制御信(神)号。

2022年7月6日

御神誡

一 わが心の角(かど)でわが身を打つこと。

初代金光教合楽教会長・大坪総一郎師ミニ御理解(昭和53年7月10日)

「人を呪(のろ)わば穴二つ」(法界坊)
「お主(しゅう)を殺せば親まで殺した」(明智光秀)

信心ハ自分自身をころすこと。
親を生かし、周囲を生かす。
自分をむなしゅうすることです。
馬鹿(ばか)になってゆけバ人を生かし、阿呆(あほう)になってゆけば自分を生かす。
目出度(めでた)、目出度で道が開ける。

金光教亀有教会ミニ御理解

「角」という字は上半分を外すと「円」という字になります。

心もそのような部分(突き出しているようなところ、尖っているようなところ)を外していくと円くなっていきます。

2022年7月5日

御神誡

一 腹立てば心の鏡のくもること。
 (*『金光教教典』では「腹立つは心の鏡のくもること。」と表記)

初代金光教合楽教会長・大坪総一郎師ミニ御理解(昭和53年7月9日)

神愛と受けたら御礼が言えた。
修行と受けたら、元気な心がモリモリ湧(わ)いてきた。
相手の心を思うたら祈らずに居(お)れぬ。
こんな人が世の中には沢山(たくさん)居ると思うたら悲しゅうなった。
これは、神の悲しみとも思えた。
事に当たっていよいよ深く広く祈れることは、誠にもって有り難しの極(きわ)み。

 *こんな人とはささいなことで腹を立て、身を苦しめておる人。

金光教亀有教会ミニ御理解

〝腹立てば「心の神」のくもること〟

腹を立てている時は神様の心も曇らせている時なのです。

いかなる時でも立てるべきものは腹ではなく神様です。

2022年7月4日

御神誡

一 わが身の苦難を知りながら人の身の苦難を知らぬこと。

初代金光教合楽教会長・大坪総一郎師ミニ御理解(昭和53年7月8日)

助けると言うても義理や人情で助けても双方とも真の助かりにはなりません。神情です。神心(かみごころ)となりてお導きをするのです。
神様が助けて下さるお手伝いをさせて頂くのです。
そこには、人も助かり自分も助かる示現(じげん・神仏が不思議な働きを示し現すの意)の道が開かれます。
信心とは本当の真実(ほんとう)を分かることです。

金光教亀有教会ミニ御理解

苦しいことや辛いことがあると自分だけが苦しいような感覚になり、周りは皆幸せそうに見える時があります。

しかし私の周囲を見回してみても順風満帆、平々凡々と生きている人など一人もいません。どんなに幸せそうに見えても、人知れず色々なものや思いを抱えながら、それでも多くの人が今を懸命に生きています。

自分だけが苦しいと暗示をかけて余計にその苦しみを増させたり、人が抱えている苦しみに無神経にならないようにしたいですね。

2022年7月3日

御神誡

一 口に真を語りつつ心に真のなきこと。

初代金光教合楽教会長・大坪総一郎師ミニ御理解(昭和53年7月7日)

今日もどうぞ神様の御心に適う一日でありますようにと祈る中味でありたい。
  云(い)ふことと行ふことと思ふこと
   天地のリズムに乗りてこそ
       神の心に妙(たえ)にひびかん

〝照るてる坊主てる坊主。明日、天気にしておくれ〟と童心(わらべごころ)で一心にねがえ。

金光教亀有教会ミニ御理解

調子の良いことばかりよく言う人がある。十しかないものを百のように語るな。見せるな。

信心はまことしやかでなく、まことであれ。

2022年7月2日

御神誡

一 真の道におりながら真の道をふまぬこと。

初代金光教合楽教会長・大坪総一郎師ミニ御理解(昭和53年7月6日)

発想の転換。
金光教の信心ハ、お徳を受けてゆくことの為にある信心であります。
(まこと)の道とは御神徳につながる道です。
そのためには修行が必要です。
おかげ(御利益)をうけるだけの修行で終わる人が多いのは残念なことです。
焦点を間違えることなく、楽しく有り難く、そして愉快にすらなれるのが真の道であり、真の信心です。
もし有り難くも又楽しくもないなら、それは真の道を間違えて居ると思って大反省すべきです。

金光教亀有教会ミニ御理解

「ふむ」ということは「ふまえる」ということ。真の道を「ふむ」ために「ふまえる」べきこと。

一、御取次を願うこと
一、こだわり
を外すこと
一、教えに取り組むこと
一、改まっていくこと
一、素直になること

2022年7月1日

御神誡

一 幼少の時を忘れて親に不孝のこと。

初代金光教合楽教会長・大坪総一郎師ミニ御理解(昭和53年7月5日)

「嫁姑(よめしゅうと)の仲悪きは天地にも響く」とあります。孝心なくては良い信心は絶対に育ちません。親孝行ハ信心の根本ですから、子に慕われる親、親に信じられる子でありたいものです。

金光教亀有教会ミニ御理解

親を拝む人は多いが子を拝む人は少ない。

親を大切にすることはもちろんですが、同じくらいに子供も大切にしなければ結局、親にも不孝をすることになります。

親や人様の世話にならずに生まれ育ってきた人はいません。たとえどんな善人と言われるような人であっても、親をはじめ多くの方々にお世話やお手間をおかけして今日があるのです。

自分の幼少の頃を棚に上げ、今の自分の都合や基準で子供や若い人たちを見ないようにしたいものです。私は今の時代の子供や若い人たちを見ると手を合わさずにはおれなくなります。子供や若い人たちは家、ひいては国の財産です。みんなで大切にしていくべき存在です。