2024年7月11日~20日

2024年7月20日

御理解第2節

先の世までも持ってゆかれ、子孫までも残るものは神徳じゃ。神徳は、信心すればだれでも受けることができる。みてる(尽きる)ということがない。

初代金光教合楽教会長・大坪総一郎師ミニ御理解(昭和55年7月24日)

最高にして最大の内容を持つ宗教。
それは『信心すれば誰でも受ける事が出来る』と言う神徳。
神徳の世界に住む手立てを教えられた教祖の教えの中心になるものは『天地日月(てんちにちげつ)の心』である。
それを具体的に言うと『成行きを尊び頂く』ことである。
神さまの働きそのものを大切にすることハ、神さまを大切にすることになる。
お祀り(まつ)をしておる神さまばかりを大切にして、御働き其のものをお粗末にしてはお徳にならぬ。
その根底には『信心は本心の玉を研くもの。信心は日々の改まりが第一』とすることは勿論(もちろん)である。

金光教亀有教会ミニ御理解

人徳は人様からのご信用、神徳は神様からのご信用。

人目につくところに実意丁寧を尽くせば人徳につながり、
人目につかないところに実意丁寧を尽くせば人徳にも神徳にもつながります。

2024年7月19日

御理解第1節

今、天地の開ける音を聞いて、目を覚ませ。

初代金光教合楽教会長・大坪総一郎師ミニ御理解(昭和55年7月23日)

『おかげは和賀心にあり』として天地書附を千遍となえても真実のおかげにはならない。
断片的なものでなく、こわそうとしても壊れない不壊(ふえ)のもの、不壊の和賀心を頂きたい。
天地の開ける音を聞いて眼をさますということは、一切神愛(いっさいしんあい)と悟れた時である。そこには御礼の対象、喜びの対象にならざるものなし。
難儀も苦労もここの所をわからせたい神愛の現われである。

金光教亀有教会ミニ御理解

このみ教えを語られた教祖様ご自身が「今、天地の開ける音を聞いて、目を覚ました」時は果たしていつだったのだろうかと思います。四十二歳の大患、神の頼みはじめ、立教神伝、天地書附の誕生、はたまた実は表には出ていないような何気ない日常の一コマからか・・・色々考えられますが、少なくとも一回限りではなかったように思います。教祖様の書き残された『覚書』『覚帳』『年譜帳』や様々な方の伝えをたどってみますと、そこには日々の成り行きの中から常に天地の開ける音(神様の声)を聞き取ろうとし、自らの心もまた開いていこうとされる息づかいを感じるのです。
いつでも、いくつになっても凝り固まることなく、天地の開ける音を聞きたい、目を覚ましたいという意欲を持ち続けたいですね。

2024年7月18日

御神訓

一 真心(しんじん)の道を迷わず失わず末の末まで教え伝えよ。

初代金光教合楽教会長・大坪総一郎師ミニ御理解(昭和55年7月22日)

片島せんというお徳の高い先生が居られました。
或る時、大きな手洗石がお供えになりました。
神様にお届けをなさり「この大きな手洗の水が一日でなくなりますような沢山(たくさん)の氏子をお引き寄せ下さい」と願われました。神さまより何の受け応(こた)えもありませんでした。
(なお)、お願いをなさると神さまより「なぜ真心を求めて来る氏子をと願わぬか」とおさとしがありました。
神様が求め給うのは真の信心であることがわかります。
残るのはお徳であり真の信心であります。
同時に、毎日、子供に孫に伝わる信心を願わねバなりません。
どうぞ神さまのお役に立つ氏子にお取り立て下さい、と繰り返し願うのです。

金光教亀有教会ミニ御理解

真心(まごころ)という言葉を調べてみると「真実の心。偽りや飾りのない心。」などと出てきます。だからと言って「真心(しんじん)の道」もまた真心(まごころ)にならなければダメなんだとか、あまり難しく考える必要はありません。このみ教えは決していつもそういう心でいなければならないことを強いるみ教えではないように思います。
私は真心(しんじん)とは「何か事を受けて一番最初にパッと浮かび上がる心」だと受け止めております。嬉しい、楽しい、苦しい、悲しい、淋しい、腹が立つ等々、第一心情とでも申しましょうか。たとえそれが世間的にはネガティブなものだったとしても、まずはその第一心情を自分自身が認め、無理矢理押さえ込んだり何とかしようとせずに、その素の心情こそを偽らない飾らないで、ありのまま正直に神様に、また取次者に伝え、そこからの進化展開を願う。そしてその営みを積み重ねていく。
大変、大雑把で独りよがりかもしれませんが、私にとって「真心(しんじん)の道」とはそのように受け止めています。皆さまは、いかがでしょうか?

御神訓

一 神は声もなし、形も見えず、疑わば限りなし。恐(おそ)るべし、疑いを去れよ。

初代金光教合楽教会長・大坪総一郎師ミニ御理解(昭和55年7月21日)

おかげ(御利益(ごりやく))をうけて信ずると言うのは本当でない。
『信心は本心の玉を研くもの。信心は日日の改りが第一』として、教えの根底となし、日常の信心生活から生まれてくるおかげを受けて、神への絶対信がついてくる。
神を信ずる者ハ多いが神から信じられる者ハ少ない。
神に信じられて生まれてくる信こそ、絶対信である。

金光教亀有教会ミニ御理解

神を疑わない人と疑っている人との差は必ずしもあるというわけではありませんが、神から疑われない人と疑われる人との差は歴然です。
神を疑ってはいなくても教えを守らず、取り組まずでは大した値打ちはありません。

2024年7月16日

御神訓

一 神の教えも真の道も知らぬ人の哀(あわ)れさ。

初代金光教合楽教会長・大坪総一郎師ミニ御理解(昭和55年7月20日)

天地金乃神さまの御心がわかれバわかるほど、信心のない人共の姿が哀(あわ)れにも又悲しくも見えてまいります。
ここから起きてくる情感をもって示現活動(じげんかつどう)に参画(さんかく)することが、どんなに尊く且(か)つ親神さまの御心を少しでも安(やす)んじまつることとも相成ることでしょう。
ここにはじめて神と氏子の『あいよかけよ』の働きが起こり、神も助かり氏子も立ち行く世界が開けてまいります。
神さまにお喜び頂ける世の清まりと人の助かりを願う一念を、燃やしてゆきたいと念願して止みません。

*示現活動参画
 示現とは神さまが不思議な働きを示し現わすの意。
 そういう活動に参画すること。参画とはその計画にあずからせて頂くこと。

金光教亀有教会ミニ御理解

神の教えや真の道という以前に、何が哀れと言っても、大切なものを大切なものとして気づけないことと、お粗末ご無礼不行き届きに気づかないことほど哀れなことはありません。昔話や童話などにしても怖いとか哀れだなというお話は必ず、このどちらかが当てはまっているように思います。

自らを省みること(己)、聞く耳を持つこと(人)、一つ一つ丁寧にお願いお断りを申し上げること(神)。気づくべきものに気づかせて頂くために常に携えておくべき三指針。

2024年7月15日

御神訓

一 やれ痛やという心で、ありがたし、今みかげをという心になれよ。

初代金光教合楽教会長・大坪総一郎師ミニ御理解(昭和55年7月19日)

苦しかっても御礼もうし上げるということは、みやすいとは思われませんが、『一切神愛』とわかってみれバ嘘にでも御礼申し上げねバなりません。
教祖様はこのように御教え下さってあるのですから。
(ことわざ)に「嘘から出たまこと」と言うことがあります。 

金光教亀有教会ミニ御理解

痛い思い、苦しい思いは無理に押し殺さなくてもいいです。いやむしろ思いっきり出してほしいです。それを出せるところが教会であり御結界です。
体が食べては出し、吸っては吐きすることによって健康が保たれているように、心もまた入れては出す、出しては入れることの循環によって健康が保たれ周(まわ)っていきます。消化しきれないもの毒になるものを出すことによって、ありがたいもの必要なものが入ってきます。
そしてこの営みが軌道に乗ってまいりますと痛いこと苦しいことがあっても、だんだんと自分で消化できるようになり、痛いというその瞬間から「神様、金光様」と手を合わせられる心も育ってまいります。

2024年7月14日

御神訓

一 悪いことを言うて待つなよ、先を楽しめ。

初代金光教合楽教会長・大坪総一郎師ミニ御理解(昭和55年7月18日)

どんな場合でも、ここからの信心という心を頂いてゆけば、お先真暗(さきまっくら)という事はありません。
これから先どういう事になるだろうかと思う心が悪いことを言うことになります。よくないことが起こって来る元があります。
どんな場合でもお陰の素(もと)、お徳をいただくチャンスと頂く時、むしろ先が楽しくなります。 

金光教亀有教会ミニ御理解

私も今日までの道のりには明日をも見通せないところを何度も何度も通ってきました。厳しい状況の中にある時は先を楽しめと言っても、にわかにそんな気持ちにはなれません。頭でそのような指令を出しても心はすぐに言うことを聞いてくれるわけではないのです。
過去や未来、人の足元や自分の至らなさにとらわれすぎず今日ただ今、目の前のこと一つ一つを合掌して頂き、心と体の動ける範囲でいいから今できうるせめてものことをさせて頂く積み重ねが、神様の信用を得て先を楽しめることが生まれてまいります。万事に良いお繰り合わせを頂けるよう神様に願い、今を真剣に精一杯、生きること以外にありません。

2024年7月13日

御神訓

一 用心は、前からたおれぬうちの杖(つえ)ぞ。

初代金光教合楽教会長・大坪総一郎師ミニ御理解(昭和55年7月17日)

何十年信心いたしましても杖にも柱にもなって居ない人があります。
ここで信心の力を受けねバと言うとき、信心のある者も無い者も変わらぬ様では、『倒れぬ内の杖ぞ』が泣きます。
只今の御祈念前に日田(ひた)の綾部(あやべ)さんのお届けに「この頃ハ毎日が事柄の中に、人間関係の中に、すべての中から神さまを身近に実感致します」と。
又、これも昨日のことです。福岡の伊藤さんのお届けに、先日或る方が「主人がおかしな事件の為、給料を持って帰らない」と嘆かれるのを聞き「お金を差し上げると思うて貸してあげたい」とお届けがありました。
私は申しました。
「貴女の親切では双方がおかげになりません、其の心で神様に向かいなさい」と。今日のお届けに「其の方から、主人が十万円持って帰りました、とお礼の電話でした。たしかな神さまに恐れ入ります」と。
このような神様を頂き乍(なが)らの信心でなけれバ、いざと言う時の杖にはなりません。

金光教亀有教会ミニ御理解

先月、御本部参拝の道中、車を運転していたら大変危ない場面がありましたが、大事に至らずに済みました。本当におかばいを頂いたと思いました。車を運転するにあたっては当然細心の注意を払いますが、私の場合、それに加え必ず運転する前には「神様お願いします」、終わった後には「神様ありがとうございます」と手を合わせるようにしています。
ただ自分が気をつける、自分で注意するという程度では用心が甘いです。人間どれほどに気をつけていても想定外や万一ということも起こる時は起こります。
最大の用心は神の杖を常に外さないことです。

2024年7月12日

御神訓

一 祈りてみかげのあるもなきも、わが心なり。

初代金光教合楽教会長・大坪総一郎師ミニ御理解(昭和55年7月16日)

『心一つで総(すべ)てを創る』と私ハ頂いております。と言うことは、心ひとつで総てを壊すと言うことにもなります。
『霊験(みかげ)のあるもなきも我心』とあるも、同一意義のものと思われます。
「我心(わがこころ)」言い「心ひとつ」と言うが霊験(みかげ)の受け得る心とはどういう心を言うのでしょうか。
お参り、表行(わぎょう)(火や水の行)から来るみがけではないようです。
金光教的独自のおかげとは、家業の行にかけ、心行一つにしぼり、祈願し奉(まつ)るところから生まれて来るおかげであって、はじめて本教的おかげと言うのではないでしょうか。

金光教亀有教会ミニ御理解

祈りてみかげと思えるも思えぬも、わが心なり。

同じ事柄でもそれに対して御礼を申せる人もいれば、反対に不足を言う人もいます。一口に「みかげ」と言っても何をもってみかげと思えるでしょうか。みかげと思えるハードルが飛び越えやすい位置にあるのと飛び越えにくい位置にあるのとでは運命がまったく変わってきます。みかげがあるかなきかよりも、わが心がみかげをみかげと思えるかが肝要です。

2024年7月11日

御神訓

一 忌(い)み汚(けが)れは わが心で犯すこともあり払(はら)うこともあり。

初代金光教合楽教会長・大坪総一郎師ミニ御理解(昭和55年7月15日)

『清濁一如(せいだくいちにょ)
神様から御覧になれバ本来清も濁もない。神の心を心とする生き方を体得させて頂くのがお道の信心ですから、それに近づく一歩一歩の精進が「さとり」となって、大悟(たいご)とまではゆかずとも有難い心の状態が開けてきます。
本音(ほんね)と建前(たてまえ)とのコントロールが出来るのも神の願い。神のみこころを根底としてのコントロールでなけれバ横着になることがあります。心して土(どろ)の心を基調としてゆけば間違いません。
心は信心の定規ですから。

金光教亀有教会ミニ御理解

「忌み」という言葉は「汚れとされるものを嫌い避けることで身を守ろうとする」という禁制としての意味合いが強いですが、もともとは「神に対する慎みの気持ちから、身を清めて清浄であろうとする」という意味合いもあるそうです。
汚れと見なしたり、それを嫌い避けようとすることはわが心で犯すことになりますが、慎みの気持ちや、清浄であろうとすることはわが心で払うことにつながります。