2025年7月20日
御理解第33節
お供え物とおかげは、つきものではないぞ。
初代金光教合楽教会長・大坪総一郎師ミニ御理解(昭和56年7月24日)
親が子に無条件にお乳を与えるようなものではなかろうか。
氏子私共も又、無条件に親神(おや)に尽くせるように育たねバならぬ。
無条件と無条件の出合い、そこに『天地人一如(てんちじんいちじょ)』の世界が開かれるのです。
金光教亀有教会ミニ御理解
お供え物だけでなく、信心においても「自分がこれだけした、やった」と思うことと、おかげとは必ずしもつきものではありません。どんなに精一杯やっていても、この「自分が」と思う心がすぎると知らず知らずのうちに我をこしらえることになってしまうからです。それは裏を返せば神様に対して「自分が(我)これだけしたから」「自分が(我)これだけやったから」と条件をつけたり、駆け引きをしているようなものだからです。
条件付きの心には条件付きのおかげ
無条件の心には無条件のおかげ
あなたのせっかくの頑張りを最大限に生かすのは「無条件」です。
2025年7月19日
御理解第32節
女が菜園に出て菜を抜(ぬ)く時に、地を拝んで抜くというような心になれば、おかげがある。また、それを煮(に)て食べる時、神様いただきますというような心あらば、あたることなし。
初代金光教合楽教会長・大坪総一郎師ミニ御理解(昭和56年7月23日)
実験実証させて頂く信心の「いろは」です。
大地を拝む気になり、すべてに頂きますという合掌(がっしょう)の心。
今まで気づかなかったおかげの元が、そこにもここにもある事に気づかされます。信心とは一切を拝み、一切を頂きますと言うことだな、とわかります。
金光教亀有教会ミニ御理解
菜を抜く時や煮て食べる時だけでなく万事において、拝む心はおかげを引き寄せ、いただく心は厄難を祓う。
2025年7月18日
御理解第31節
信心する者は、木の切り株に腰(こし)をおろして休んでも、立つ時には礼を言う心持ちになれよ。
初代金光教合楽教会長・大坪総一郎師ミニ御理解(昭和56年7月22日)
遊侠(ゆうきょう)の世界にも一宿一飯(いっしゅくいっぱん)の恩義に命をかけて恩に報ゆると聞く。
教祖ハ『信心して神の大恩を知れば、無事健康(たっしゃ)で子孫も続き身代も出来、一年勝り代勝りのおかげを受ける事が出来るぞ』と教えておられる。
生命(いのち)で感ずる物すべての恩のことである。
金光教亀有教会ミニ御理解
大祭や霊祭などにおいて、ご祭典を奉仕する祭員はご神具や玉串はもちろん、イスやマイクスタンドなどに対しても必ず、まず一礼をしてから手に持ち、手から放した際にもまた一礼をします。どんなに些細なことでも「お願いします」と、「ありがとうございました」の心を持つことは信心のイロハの「イ」です。
立つ時に加え、座る際にも一礼をするような手厚い心持ちでありたいですね。
2025年7月17日
御理解第30節
神を信ずる者は多いが、神に信ぜられる者が少ない。
初代金光教合楽教会長・大坪総一郎師ミニ御理解(昭和56年7月21日)
人間が人間らしい生き方の中にこそ、神人一体の真(しん)の喜びの生活がある。いわゆる歓喜の世界である。
聖人君子の様な生き方をめざすのが信心のような間違った観念をふり捨てて、神さま頂きますという心、すべてに「御(おん)」の字をつける受け方を身につけて、目に見えるところより目に見えぬところを大切にする心、メグリのお陰で信心が出来ますというような信心を求めてゆきたい。
金光教亀有教会ミニ御理解
人間にしても調子の良い時だけでなく辛く苦しい時にも、変わらずに心を寄せてくださる人が信用できる人ということになるのではないでしょうか。
神様も同じように思い通りにいく時でもいかない時でも、変わらずに心を向けてくる氏子を信用してくださるようです。
2025年7月16日
御理解第29節
桜(さくら)の花の信心より、梅(うめ)の花の信心をせよ。桜の花は早う散る。梅の花は苦労しておるから長う散らぬ。
初代金光教合楽教会長・大坪総一郎師ミニ御理解(昭和56年7月20日)
〽︎ 梅ハ咲いたか
桜はまだかいな
柳なよなよ風次第
これハ小唄の一節ですが、梅の信心辛抱、桜の花が咲いたような華やかなまでのおかげを受けたい。
それにハどこまでも、柳の風次第(しだい)風まかせであるように、神さま次第の信心をせねバなりません。
先ずハ桜の花より梅の花の信心が先です。
金光教亀有教会ミニ御理解
桜は花の咲いている期間は梅よりも短いですが、木としての寿命そのものは決して梅より短いというわけではないようです。
また以前、教会前にあったソメイヨシノは心なしか開花の時期になると、いつにも増して幹が黒く色づいているように感じられました。花をより一層に引き立たせるためでしょうか。桜の意外な一面を見るような思いがしました。更に秋にはモミジやイチョウとは違った紅葉で楽しませてくれました。花だけでなく根や幹や枝葉なども踏まえると私の中で桜は「華やかさ」とか「はかなさ」とかだけでなく、様々な特徴を感じさせる存在です。
ものの見方が「切り取られたもの」や「端折られたもの」だけで印象づけられたり、判断されやすくなっているように何となく感じる昨今、様々な視点や捉え方を持つことを心がけたいですね。
2025年7月15日
御理解第28節
病人や代々難儀(なんぎ)の続く人が神のおかげを受けるのは、井戸(いど)がえをするに、八、九分かえて、退屈(たいくつ)してやめれば、掃除(そうじ)はできぬ、それで、やはり水は濁(にご)っておるようなもので、信心も途中(とちゅう)でやめれば病気災難の根は切れぬ。井戸は清水(せいすい)になるまで、病気災難は根の切れるまで、一心に、まめで繁盛(はんじょう)するよう元気な心で信心せよ。
初代金光教合楽教会長・大坪総一郎師ミニ御理解(昭和56年7月19日)
信心辛抱しぬいた後の感動が力となりメグリのお取り払いともなるのです。
感じたことが神さまを動かすのです。
まこと、真(まこと)と申しましても、感動のない真では神さまに通いません。
金光教亀有教会ミニ御理解
出だしは調子がいいけど途中から尻切れトンボになってしまう人があります。もったないことです。惜しいことです。
夏期信行もこれから後半に差しかかってまいります。せっかくここまで来たのですから緩むことなく、むしろここから一層に心を締めて最後まで走り抜けたいものです。
井戸は清水になるまで、夏期信行は成就御礼の日(7月末日)まで、一心に、まめで繁盛するよう元気な心で信心せよ。
2025年7月14日
御理解第27節
昔から、あの人は正直者じゃ、神仏(かみほとけ)のような人じゃという者でも、だんだん不幸なことが重なって、世間では、どういうものであろうというようなことがあろうが。なにほど、人に悪いことをせぬ正直者でも、人がよいのと神に信心しておかげを受けるのとは別ものぞ。
初代金光教合楽教会長・大坪総一郎師ミニ御理解(昭和56年7月18日)
親鸞小人(しんらんしょうにん)ハ
「善人なおもて往生(おうじょう)をとぐ、いわんや悪人をや」と言うことを残しておられるそうですが、親神の心をいたいほどとらえたおことばだと思います。
善人悪人を問わず、神さま助けて下さいと言う心をおこしたらお陰が受けられるのは、氏子助けたしの神願の現われであります。
金光教亀有教会ミニ御理解
人の機感に叶うことと神様の機感に叶うこととは別物のようです。それではどうあることが「神様の機感に叶う」ということになるのでしょうか。
心に裏表や計算高さがなく
自分をひけらかさず節度をわきまえ
人のことをあれこれ言うこともなく、陰で人を祈り寄り添い
神様や御霊様を敬う心厚く
決しておごることなく謙虚で慎ましやかでありながらも
誇り高く探求心に富み
毎日をコツコツとひたむきに勤め生きる人
これはあくまで今日(こんにち)までに私が感じ取ってきた範囲での「神様の機感に叶う観」に過ぎませんが、真ん中の一文とほか、いずれか一つだけでも身に付けたいと願っております。
2025年7月13日
御理解第26節
信心に連れはいらぬ。ひとり信心せよ。信心に連れがいれば、死ぬるにも連れがいろうが。みな、逃げておるぞ。日に日に生きるが信心なり。
初代金光教合楽教会長・大坪総一郎師ミニ御理解(昭和56年7月17日)
「生命の欲求」と頂きました。
いのちが求めるやむにやまれぬもの、という事でしょう。
信心は私の生命(いのち)ですといえるまで信心を高めたい。
教祖さまが極(きわ)められた御教え『日に日に生きるが信心なり』という本当の意義がだんだんわかってまいります。
金光教亀有教会ミニ御理解(※本日は末永邦子先生のミニ御理解です。)
ろくろで粘土を成形する、土と個は一心に向き合う。
日々向き合う成り行きは、私の器(心)を大きく育てる。
2025年7月12日
御理解第25節
信心は大きな信心がよい。迷い信心ではいかぬ。一心と定めい。
初代金光教合楽教会長・大坪総一郎師ミニ御理解(昭和56年7月16日)
金光教(おみち)の信心ハ大(だい)、且(か)つ深遠であります。天地の心を心とする生き方を教え説きます。
かかる偉大なる教えを頂きましても、自ら小さくしている人が沢山(たくさん)あります。
天地の徳と大きなおかげを頂く為にも、天地の心を体得し実験し実証してゆかねバなりません。
昨夜、私の知人のおばあさんが亡くなられました。家内がおくやみに参りまして帰ってから話して居りましたが、今日が友引(ともびき)になるので葬式を一日延ばすと言うのです。
何と窮屈な生き方ではありませんか。
金光教亀有教会ミニ御理解
今日は広島で80回目の金光教(おみち)の平和集会が開かれていますが、世界の平和も家庭の平和も、どちらも願いたいものです。
大きな信心といっても横着であってはなりません。時計の時針(じしん)と秒針(びょうしん)の連動性ではありませんが、小を踏まえての大、大を踏まえての小でありたい。
2025年7月11日
御理解第24節
人に誘われて、しょうことなしの信心は、つけ焼き刃の信心じゃ。つけ焼き刃の信心は取れやすいぞ。どうぞ、その身から打ちこんでの真(まこと)の信心をせよ。
世に勢信心ということを言うが、一人で持ちあがらぬ石でも、大勢かけ声で一度に力をそろえれば持ちあがる。ばらばらでは持ちあがらぬぞ。家内中、勢をそろえた信心をせよ。
初代金光教合楽教会長・大坪総一郎師ミニ御理解(昭和56年7月15日)
各自(めいめい)の信心の要(かなめ)がとこにおかれているかよく考えてみましょう。
一、「人間ハ土(どろ)より出でて土に還(かえ)る」と言われます。だから其の道中とても土の心に徹する。
一、成行きを尊び大切にする。それハ、成行き其のものが天地自然(神)の働きだからと信じて疑わない。
一、間違いのない絶対の真を身につける生き方を体得して行けば、必ず末広のおかげも肝心要の御神徳も受けることが出来る。
金光教亀有教会ミニ御理解
「その身から打ち込んで」ということも大切ですが、「家内中、勢をそろえて」ということもまた更に大切なことのように思います。
せっかく自分では一生懸命信心しているつもりでも、家内中からは冷めた目で見られていたのでは神様も喜ばれません。それではその身から打ち込んでの信心というよりも、独りよがりの信心です。
勢をそろえてとまではいかずとも家内中から人として大切にして頂ける信心でありたいものです。
