2022年7月21日~31日

2022年7月31日

御神訓

一 信心は家内に不和のなきがもとなり。

初代金光教合楽教会長・大坪総一郎師ミニ御理解(昭和54年7月4日)

茶室を建てるに其の約束に従い内外にも、そのたたずまいにも工夫を凝(こ)らし、茶の精神(こころ)を自ずと体得出来るように心を配ってあるように、信心者の家でも先(ま)ず神様を家の中心に奉斎(ほうさい)しまつり、信心家庭としての雰囲気(ふんいき)作りと共に家庭円満も形の上からも、そのような手立てが必要でなかろうか。

  和をもちて治める人に福徳も
   人をも慕い来るものぞ
    ゆめ忘れるな和賀心(わがこころ)

金光教亀有教会ミニ御理解

信心はあだ口、責め口を言わなきがもとなり。

腹の虫が治まらないということは必ずあるが責めたら大損、責めねば小得。家庭円満はその小得の積み重ね以外にない。小得が積み重なって大徳ともなる。長い目で見たらその差は歴然となる。

2022年7月30日

御神訓

一 天地のことは、人の眼(まなこ)をもて知りて知りがたきものぞ。恐(おそ)るべし恐るべし。

初代金光教合楽教会長・大坪総一郎師ミニ御理解(昭和54年7月3日)

小賢(ざか)しき人より見れば神ハなし
 神の叡知(えいち)にふれて見て
  はじめてわかる神の偉大力(みちから)

神業(かむわざ)を神業なりと知らずして
 生きて行くほど恐(こわ)いものなし

永遠の魂悟らず終えて行く
 人ぞ悲しき唯物(ゆいぶつ)
  人の世界に住むぞおそろし

金光教亀有教会ミニ御理解

(おそ)れなくてよいものを怖れ、畏(おそ)れるべきものを畏れないことほど恐ろしいものはない。

 徳切れが一番恐ろしいものじゃ。(二代金光様お言葉)

2022年7月29日

御神訓

一 四季の変わりは人の力におよばぬことぞ。物事、時節に任せよ。

初代金光教合楽教会長・大坪総一郎師ミニ御理解(昭和54年7月2日)

人間の智恵、力で大いなる自然をおし量ることは出来ぬ。
この梅雨前も今年は空梅雨とテレビで報じていたが、あちらこちらで水害が出るほどの雨量である。
災害も天地の謂(いわれ)あってのこと故に、自然の働きに逆らうことなく、時節を待つのが肝心である。
天地の心に添うことこそ、神乍(かんなが)らの生き方といえる。
神乍らのおかげの世界に住むためにも、時節に任せすがってゆかねばならぬ。
神の大愛を知るためにも・・・・・・。

金光教亀有教会ミニ御理解

植物にしても動物や虫たちにしても天地自然の流れに添って生きています。どれだけ心がはやっても時節のお繰り合わせを頂かなければ物事、流れてはいきません。信心に焦りは禁物。時節に委ね、時節を待てる信心を身につけたいものです。
せっかちではせっかくの時節も逃げていきます。

2022年7月28日

御神訓

一 欲得にふけりて身を苦しむることなかれ。

初代金光教合楽教会長・大坪総一郎師ミニ御理解(昭和54年7月1日)

富貴自在(ふうきじざい)の世界に住みたい。
身を削(けず)り心をけずり、天に捧げよ地を肥やせ。
信心ハ限りなきものへの憧(あこが)れ。
あこがれているものの前には、惜(お)しいものも欲しいものも影をひそめる。
執着の心が身を苦しめる。
(まこと)の信心ハ小慾を捨て大慾に生きること。

金光教亀有教会ミニ御理解

欲を捨て去れと言うことではない。教祖はお道の奥義九か条の一つとして「欲徳」と答えられた。このお道は「欲得」を「欲徳」にしていく道を教える。

欲に流されず、欲を生かせ。欲の鎮めどころと使いどころをわきまえ、欲にも御礼が言えるようになれば「欲得」は「欲徳」となる。

2022年7月27日

御神訓

一 信心する人の真(まこと)の神徳を知らぬこと。

初代金光教合楽教会長・大坪総一郎師ミニ御理解(昭和53年7月31日)

修行なくて真の神徳を感ずることは出来ぬ。
知っただけでなく神徳ハ頂かねバならぬ。神徳の中にあっても修行なくては神徳ハ感じられぬ。
真の神徳を感じるところに神恩有り難しの心が生まれる。
その有り難しの心で修行にはげむ時、必ず誰でも神徳が頂ける。
神徳を受けて初めて真の神徳を知ったということになる。
神徳をわかり受けるという事ハ、修行にはじまり修行に終わる、と結論。

金光教亀有教会ミニ御理解

金光教でいう神徳とはいわゆる祈念力とか、千里眼的な能力のことを言うのではない。合楽の初代はそれは霊徳だと説かれ、神徳と霊徳とをハッキリと区別された。
しかし神徳というと教内でもまだまだ、あられぬ行を積んだ、特別な人でなければ到底受けられるものではないというイメージや思い込みが強い。まさに現代的迷信・日柄方位信仰である。

まずは間違った観念を捨て去り、本気でご神徳を頂かせてくださいと発心するところから。

2022年7月26日

御神訓

一 わが信ずる神ばかり尊みてほかの神を侮(あなど)ることなかれ。
(*『和賀心教典・第2版』では「わが信心する神ばかり」と表記)

初代金光教合楽教会長・大坪総一郎師ミニ御理解(昭和53年7月30日)

(これ)が本当だ、これが真実だと確信出来て行じたら、必ず其の実証が現われるのがお道の信心です。
低迷なものを信じたり、これでよいと思うて居(お)る人には神心をもって、より本当のことを伝えるのが真心(しんじん)です。
他を侮(あなど)るのでもなけれバ軽蔑(けいべつ)するのでもありません。
自分の心の定規に照らしながら、本当と間違いを正して行くのも『わが生活の真実を丁寧、親切、愛を以(もっ)て語りゆき』と言うことになるのです。

金光教亀有教会ミニ御理解

神々だけでなく、この世に侮っていいものなどあろうはずはありません。自分自身も含めて――――――。
他を侮れば自分自身が侮られることとなり、自分自身を侮ってもまた他から侮られることになる。

侮れば侮られ、尊べば尊ばれる。

2022年7月25日

御神訓

一 信心してみかげのなき時は、これぞ不思議なることぞ。

初代金光教合楽教会長・大坪総一郎師ミニ御理解(昭和53年7月29日)

思うようになるだけが霊験(みかげ)ではない。真心一心をもって願えば必ず手ごたえがあるものです。手応えを感ずるまで一心に姿勢を改めてゆかねバなりません。
手応えそのものが霊験です。
昨日、吉田先生が初めて或(あ)る御信者の帰幽祭(きゆうさい)と五十日祭を奉仕しました。奉仕を終わって感動一杯で御礼お届けがありましたが、それぞれに霊様(みたまさま)がおかげを受けている様子をお知らせ頂き、私の様な者でも一心にお縋(すが)りすれバおかげが受けられることがわかりましたと・・・・・・・・・。
この心を忘れるなと言うたことでした。

金光教亀有教会ミニ御理解

信心しているつもりでもおかげの実感が頂けないならば、そこからもう一歩、神様に対する銘々なりの一心を出していく姿勢がいります。
子育てでも手を貸してあげたいが、そこで親が手出ししてしまったら結局子供のためにはならないということがあるように、この神様は氏子がこれが精一杯というラインの、そのほんの少し先のところで氏子を信じて見守っておられるところがあるようです。
そのほんの少し先をどうでもという思いですがりついていく姿勢を一心というのです。その一心が出せれば嘘のような働きが現れてきます。

2022年7月24日

御神訓

一 神信心してみかげのあるを不思議とは言うまじきものぞ。

初代金光教合楽教会長・大坪総一郎師ミニ御理解(昭和53年7月28日)

神信心して不思議と思われる霊験(おかげ)が現われないなら、生きた宗教とは言えません。
おかげをうけて私共(こちら)の心も生き生きしてこなけれバ、次の真実のおかげ(神さまが下さろうとしておるおかげ)にふれることは出来ません。
そこには真(まこと)の道がわかり、真の人を目指し、神人合楽(しんじんあいらく)の世界に住むことが出来るのです。

金光教亀有教会ミニ御理解

世の人が当たり前のように思っていることや、気にもかけないようなことの中に不思議なまでの天地の働きがあることを感じられるようになれば、世の人が不思議としか思えないような霊験奇跡(みかげ)は当たり前のように受けられるようになる。

2022年7月23日

御神訓

一 食物はみな、人の命のために天地乃神の作り与(あた)えたまうものぞ。

初代金光教合楽教会長・大坪総一郎師ミニ御理解(昭和53年7月27日)

何処(どこ)の誰にでも通用する普遍性(ふへんせい)に富んだ御教えです。
神と人との交流がスンナリと出来、御礼の言い合いを感ずるのが食物であります。神のお恵みと人間氏子の労力(はたらき)がこめられたものだから、有り難く感謝の心で食すべきだけれども、そのことを忘れて不足が出たり、食べすぎ飲みすぎでおかげを落してしまう。
ここを忘れんようにすることが、信心の大事なところです。

金光教亀有教会ミニ御理解

食物だけではない。日々起きてくる成り行きもまた、あなたのためにと神様が与えてくださったものである。食物が人間の体の血となり肉となっていくものならば、成り行きは人間の心の血となり肉となっていくもの。

食物をはじめ何に限らず、みんな人間の命のためにと、親神様がおあてがいになっておるのに、不足を言うたり粗末にしてはもったいないぞ。(『金光教教典』理解Ⅲ・尋求教語録・106)

2022年7月22日

御神訓

一 わが身はわが身ならず、みな神と皇上(かみ)との身と思い知れよ。

初代金光教合楽教会長・大坪総一郎師ミニ御理解(昭和53年7月26日)

歌舞伎の殿堂(でんどう)と言われた歌舞伎座に浪花節(なにわぶし)が出演したというて問題になりました。けれども歌舞伎座ハ歌舞伎座に変わりありません。
天皇が人間天皇を宣言されたからというても、天皇に変わりありません。時代(ときよ)と時節であります。
「我が身どうなっても」と決心され、終戦の御決断とハなりました。
言ってみれバ総日本人の大恩人です。全国民が玉砕(ぎょくさい)さえ覚悟していたのですから。
日本の繁栄と平和を祈るとき、天皇陛下をはじめ、全国民の立ち行きと助かりを願います。やはり天皇ハ日本国民の中心です。

金光教亀有教会ミニ御理解

天皇が日本国の象徴であるならば、金光教教団の象徴は教主金光様です。いずれのお方も「わが身はわが身ならず」はおろか「わが心はわが心ならず」の精神がなければ到底務まらない務めを日々、貫いてくださっています。
私どもの身も心も「世のため人のため、そして神様のため」に使わせて頂きたいものです。

2022年7月21日

御神訓

一 今より何事にも方位は忌(い)まず、わが教えの昔に帰れよ。

初代金光教合楽教会長・大坪総一郎師ミニ御理解(昭和53年7月25日)

(さわ)りでもないものをさわりと思うたり、怖(こわ)くもないものをこわいと教えたり、不自由の世界にして世間を狭くする生き方から、人間本来の姿にかえり、自由に天地との交流を喜び楽しむ道を、神も助かり氏子も立ち行く道と説いた金光大神の教えこそ、宗教以前の宗教と言えるだろう。道の信心によって戒律(かいりつ)にしばられた宗教から脱皮せよ。
(しこう)して教えの昔に復(かえ)れ。

金光教亀有教会ミニ御理解

何かに思い悩んだり、節目に立たされた時は思索を張り巡らせたり、人力に走るよりもまず「わが教えの昔」に帰れ。「わが教えの昔」とは教祖が祟り障りの神として恐れられていた金神(のちの天地金乃神)を祀り、真正面から向き合っていかれたご姿勢、「神様ありがとうございます」「神様ご無礼お断り申し上げます」「神様お願いします」という原点に立ち帰ることである。