2024年7月31日
御理解第13節
神は向こう倍力(ばいりき)の徳を授ける。
初代金光教合楽教会長・大坪総一郎師ミニ御理解(昭和56年7月4日)
一心に参拝(まいっ)た、一心に拝んだでは、おかげばかり。
一心に教えに取りくみ、神に向こうて進んでゆくから徳をうけるのです。
この行き方には、よしそれが完璧(かんぺき)でなくても出来たかのようにしてお徳を下さるものです。
金光教亀有教会ミニ御理解
今日は御理解第13節ですが、合楽の初代は13という数字を「御神願成就」と説かれました。「向こう倍力」と言ってもその向かう心の矛先が神様であり、神様の願いが成就することのためというところに向かっていくことで倍力の徳を受けていくことへとつながってまいります。
今日をもって夏期信行成就となりますが「成就→終了」では「等倍の徳」どまりです。いよいよ「倍力の徳」にしていくためには「成就→御神願成就」、夏期信行で取り組んだことが御神願成就へと生かされていくことのためにというところに心を向けてここから更に日々、たゆむことなく取り組ませて頂くことです。
2024年7月30日
御理解第12節
神に会おうと思えば、にわの口を外へ出て見よ。空が神、下が神。
初代金光教合楽教会長・大坪総一郎師ミニ御理解(昭和56年7月3日)
見てなるほどと感じたら、教会の門をたたけ。
聞いて感じる神さまが頂ける。
又、おかげをうけて納得も出来る。
御理解第十節、第十一節、第十二節ハ、教祖が感じられた神であり、また見定められた神である。
いうなれバ教祖の神観である。
金光教亀有教会ミニ御理解
神様に対するイメージをもっとフラットなものにしていきたい。教祖様が感じられていた神様というのは神前とか神棚とかだけでなく、いつでもどこでも感じられる存在であり、また遠く、高く、手の届かない存在ではなく、近く、低く、身近なところからも感じられる存在であったように思います。
『覚書』『覚帳』を見ますと、降り照りや予言のような大きなことから、箸の上げ下ろしのような生活の細々としたことに至るまで、神様が教祖様に様々にお知らせや指示をされている様子が書かれています。この御理解で教祖様が「天が神、地が神」ではなく「空が神、下(しも)が神」と表現されたのは、天地自然のことなど大きな出来事からだけでなく、日常茶飯事、身の回りに起きてくる細々とした出来事からも神様を感じられていたからのように思えてなりません。
2024年7月29日
御理解第11節
神は天地の守(も)りじゃから、離(はな)れることはできぬぞ。
初代金光教合楽教会長・大坪総一郎師ミニ御理解(昭和56年7月2日)
神さまが離れることが出来ぬと仰せられているのだから、人間氏子がこの神さまを離すことは出来ぬとわかり悟らせて頂くところから、はじめて「あいよかけよ」の世界が開かれ、神さまと氏子(私共)の歓(よろこ)び合いの生活が出来るようになる。
御教えはすべて其の手立てである。
金光教亀有教会ミニ御理解
この世には目に届くところを守ってくださるものと、目には届かないところを守ってくださるものがあります。医者や警察、家族などは目に届くところを守ってくれますが、目には届かないところは神様に守って頂かなければなりません。
また目に届くところには限りがありますが、目には届かないところには限りがありません。知っているお守りよりも、知らないところでのお守りの方が多いのです。医者や警察、家族以上に神様への御礼と感謝は手厚くしなければなりません。
2024年7月28日
御理解第10節
神が社(やしろ)へ入っては、この世が闇(やみ)になる。
初代金光教合楽教会長・大坪総一郎師ミニ御理解(昭和56年7月1日)
いつでもたえず光を下さり、安心と喜びを与えつづけて下さる神さまです。
それを信ずる者の上に光の道は示される。光明世界ハ其の先。
うたごうて信ずることの出来ぬ者の上には、いつも手さぐりの道しかない。
その気になって神に向かえば必ず手答えがある。
金光教亀有教会ミニ御理解
神様のご神体は天地ですから、われわれ人間の方が神様の体内にいるようなものです。お社は一つの拝む目当てにすぎません。
お互いの神様を観る目、神様を感じ取る心を広く大きくしていかなければなりません。御神前で御祈念を上げるにも前だけでなく上下左右、後ろに至るまですべてが御神前と心得て向かわせて頂きたいものです。神様の御比礼の大小や広狭(こうきょう)もそれに応じて変わってきます。
2024年7月27日
御理解第9節
天地金乃神は宗旨嫌(しゅうしぎら)いをせぬ。信心は心を狭(せも)う持ってはならぬ。心を広う持っておれ。世界を広う考えておれ。世界はわが心にあるぞ。
初代金光教合楽教会長・大坪総一郎師ミニ御理解(昭和55年7月31日)
せまい心で大きな願いをたてても無理なはなしです。先ずハ広い心を願い、その修行をせねバなりません。
だまって治める信心、即ち土(どろ)の信心。
心ハ自ずと大きく広く豊かになってまいります。
清濁一如(せいだくいちにょ)の信心もわかります。
大願の氏子の上には特別の
親神さまの働きが受けられます
金光教亀有教会ミニ御理解
信心に取り組ませて頂いておりますと、今まで取るに足らないことに随分ととらわれ、反対に大事にすべきものをおろそかにしていたことに気づかされることの連続です。
今の「これが本当」にとらわれず、「これは違う」をおろそかにしない、信心は「こだわり」や「決めつけ」を外していく稽古でもあります。
2024年7月26日
御理解第8節
子供の中にくずの子があれば、それがかわいいのが親の心じゃ。無信心者ほど神はかわいい。信心しておかげを受けてくれよ。
初代金光教合楽教会長・大坪総一郎師ミニ御理解(昭和55年7月30日)
屑(くず)の子の自覚は有難いが、神さまが御覧になっての屑の子ハ困ります。
信心はしておっても教えも聞かず、聞いても守らず行ぜずでは、親の言うことを聞かぬも同じですから親を悲しませることになります。
「心をみつめ教えを行ずる」と頂きました。
金光教亀有教会ミニ御理解
私自身が「くずの子中のくずの子」でした。親はもとより、どれほどの方々、そして何より神様の心をかきむしってきたかわかりません。
神様が「子供の中にくずの子があれば、それがかわいい」と言ってくださるのであるから、私たちも「成り行きの中に思い通りにいかないことがあれば、それが信心の取り組みどころ」「神様の御思いへの応えどころ」と頂いていきたい。
2024年7月25日
御理解第7節
天地金乃神は昔からある神ぞ。途中(とちゅう)からできた神でなし。天地ははやることなし。はやることなければ終わりもなし。天地日月の心になること肝要(かんよう)なり。信心はせんでもおかげはやってある。
初代金光教合楽教会長・大坪総一郎師ミニ御理解(昭和55年7月29日)
天地ハ流行(はや)ることも終わることもなし。然(しか)れども人間の住む地球上には、どんな変化があるかわからない。
今、地球ハ「寒天危地(カンテンキチ)」にさらされている。その様な現状の中でも、特に地球上にさまざまな大きな変化が起こっていることも由々(ゆゆ)しき事と思われます。
神さまハいつも人間氏子を中心にお働き下さってあることを思う時、人間も又神様中心の生き方にならせて頂く生き方を悟らねバならぬ重大な時期にあると思います。
即ち「寒天危地」を「歓天喜地(かんてんきち」に・・・・・・。その働きを受けるには『信心はせぬでもおかげはやってある』おかげに気づき、神恩報謝の神さま中心の生き方を身につけねバなりません。
和賀心時代を世界に開く運動がいよいよ急を要します。
金光教亀有教会ミニ御理解
熱しやすく冷めやすい人がいますが、熱しやすさよりも冷めにくさを大切にしていくことが、「はやることなければ終わりもなし」という天地のような、日月のような心を育んでいきます。
今日、前教主金光様の告別式が執り行われます。「はやることなければ終わりもなし」の象徴のような御方でした。
2024年7月24日
御理解第6節
目には見えぬが、神の中を分けて通りおるようなものじゃ。畑で肥をかけておろうが、道を歩いておろうが、天地金乃神の広前は世界中であるぞ。
初代金光教合楽教会長・大坪総一郎師ミニ御理解(昭和55年7月28日)
何をなしておりましても感謝の心が頂ける信心・・・・・・。
すべての中に事柄の中身を味わい、御事柄(おんことがら)と頂く時、一切が生き生きと輝き、神の恵みと御礼の心が湧いてくる。
信心しておれバあれは飲まれぬ、これは食してはならぬということはない。神の恵みと押し頂くとき、神さまもよろこんで下さり、私共も有難い。
神恵みの中にあることを悟ることである。
底深く 静かにしずかに
湧き出づる
愛の真清水 くみてのまばや
金光教亀有教会ミニ御理解
どこにいても天地金乃神様のお広前にいるような心持ちでいてほしいと願われているみ教えのように思います。そう言うと何か不自由な、いつも緊張しとかなければならんというように思う人もいるかもしれません。
しかし私はその昔、親のすねをかじり、好きな時に起きて好きな時に寝る、わが良いように生活をしている時期が長くありましたが、いつも心は不健康で無気力な状態でした。それから数十年経ち、今は打って変わって一年三百六十五日、休みなくご結界とお広前をあずからせて頂く日々で、不自由と言ったら不自由かもしれませんが、心は健康で生きている喜びと感謝に包まれています。
どこにいても神の広前にいる時のような緊張感と自らを律する心が身についてくると、
どこにいても親の懐に抱かれているような安心感と躍動するような心が芽生えてきます。
2024年7月23日
御理解第5節
これまで、神がものを言うて聞かせることはあるまい。どこへ参っても、片便(かたびん)で願い捨てであろうが。それでも、一心を立てればわが心に神がござるから、おかげになるのじゃ。生きた神を信心せよ。天も地も昔から死んだことなし。此方が祈るところは、天地金乃神と一心なり。
初代金光教合楽教会長・大坪総一郎師ミニ御理解(昭和55年7月27日)
浅くも深くも頂ける御教えです。
只、片便の願い捨て的過去の宗教観念から言えば、お道の信心ハ大変便利で有難いようですが、いよいよ頂いて帰る。
そこから、其(そ)の奥にある御神意を悟らせて頂く時、限りなく深遠なものとなるのです。
『此方が祈る所は天地金乃神と一心なり』という深甚(しんじん)かぎりない広大無辺の御神徳にふれてゆく時、願い捨て的信心では得られぬ金光教独自の一切神愛の世界に没入してゆける。
天地金乃神と一心なりの境地も開けてくる。
金光教亀有教会ミニ御理解
片便と言えども、願い捨てと言えども神様に心を向けるということ自体は尊く、価値あることだと思います。
それに加えて例えば玄関の靴が乱れていたら揃える、どんなものでも丁寧に感謝の気持ちで使わせて頂く、人の悪口を言わない、気持ちの良い挨拶を心がける・・・等々、生活のあらゆる場面において、ささやかながらも自分自身を磨いていく、豊かにしていくことにも心を向けていけば鬼に金棒です。片便では終わらない神様との「あいよかけよ(双方向)」便の信心が動き出します。
2024年7月22日
御理解第4節
此方(このかた)金光大神あって、天地金乃神のおかげを受けられるようになった。此方金光大神あって、神は世に出たのである。神からも氏子からも両方からの恩人は、此方金光大神である。金光大神の言うことにそむかぬよう、よく守って信心せよ。まさかの折には、天地金乃神と言うにおよばぬ。金光大神、助けてくれと言えば、おかげを授けてやる。
初代金光教合楽教会長・大坪総一郎師ミニ御理解(昭和55年7月26日)
金光大神の信心を通して天地金乃神をわかることは、金光大神の世界に住むことである。
どちらを向いても有難しの道理を説き明かし、日々が信心の喜びと驚きの実験実証の出来る手立てを忠実に頂き守り、金光大神の別世界を目指したい。
神も助かり氏子も立ちゆく世界を開いて下さった金光大神ハ、たしかに神からも氏子からも両方からの恩人と言われる所以(ゆえん)である。
何としても金光大神の世界に住みたい。
金光教亀有教会ミニ御理解
教祖様が44歳の時(安政4年)、神がかって正気を失ったかのような状態になられた弟さんからの「家移りをするにあたっての建築費用を頼む」という唐突かつ無謀な頼みを「委細承知しました。私にできうる限りのことをさせて頂きます」と全面的に受けられるという出来事がありました。
常識的に考えればありえないような話ですが、教祖様が書き残された『覚書』『覚帳』を見ると神様がこのことについて後々、折に触れて御礼を申し上げている記述が何箇所も見受けられます。私は教祖様が神様から「恩人」とまでの信任を受けられるようになった大元はここにあるように思います。
私どももどんな人や出来事も決しておろそかにせず、その人、その出来事を通して神様が何か仰っておられるかもしれないという心のアンテナを立て、受信・感知するものがあった時には無条件に「委細承知しました。私にできうる限りのことをさせて頂きます」との心を発信(発心)してまいりたいですね。
2024年7月21日
御理解第3節
天地金乃神と申すことは、天地の間に氏子おっておかげを知らず、神仏の宮寺(みやてら)、氏子の家屋敷(いえやしき)、みな神の地所、そのわけ知らず、方角日柄(ひがら)ばかり見て無礼いたし、前々の巡(めぐ)り合わせで難を受けおる。この度、生神金光大神を差し向け、願う氏子におかげを授け、理解申して聞かせ、末々まで繁盛(はんじょう)いたすこと、氏子ありての神、神ありての氏子、上下(かみしも)立つようにいたす。
初代金光教合楽教会長・大坪総一郎師ミニ御理解(昭和55年7月25日)
『末々迄繁昌致す事』とありますおかげは、神と氏子の助かりにならねバなりません。
天地との調和そして交流、そこからはじめて生みなされるおかげの世界が開かれます。
即ち、神人(しんじん)共栄の世界です。
究極、神の願いとされるところは、ここにあるのです。
神の願いが氏子の上に成り、氏子の願いが神願成就に至る時、神人交流の歓喜の世界は開かれます。
金光教亀有教会ミニ御理解
場所もお金も物も、誰かが所有して人間社会は成り立っている。しかし本当はこの世にあるものはすべて神様のものであり、自分のものなど何一つない。神様のものを自分のもののように思うところにお粗末ご無礼の元がある。
信心する人は「所有」という概念を「あずかる」という概念に切り替えよ。所有しているという意識があるから我が良いように扱う。あずかりものとしてならば無碍には扱えぬ。
