2019年7月01日~10日

2019年7月1日

御理解第12節

神に会おうと思えば、にわの口を外へ出て見よ。空が神、下が神。

初代金光教合楽教会長・大坪総一郎師ミニ御理解(昭和50年7月26日)

金光大神の御教えによって知るのは真の信心です。そこから天地の大恩がわかります。又その大恩に報いる生活が出来るのです。
見るもの総(すべ)てが神の形(すがた)、聞こえるすべてを神の声と頂けるとき、はじめて天地まる生かしの神を身体(からだ)全体で感じとることが出来るようになります。
私は毎朝、天地を庭の口に出て拝みます。天地のエレキを全身に受ける思いがいたします。

金光教亀有教会ミニ御理解

空を神と頂くことは見やすいが、下(しも)も神と頂くのには稽古がいる。色眼鏡を外していくことに精進せよ。

「上下(かみしも)つけない眼差しに 上下(かみしも)立つようなヒレイが現れる」

2019年7月2日

御理解第13節

神は向こう倍力(ばいりき)の徳を授ける。

初代金光教合楽教会長・大坪総一郎師ミニ御理解(昭和50年7月27日)

皆さんが、このように炎天下、夏期信行に打ち込んでおられますが、これで徳をうけることにはなりません。
お徳をうける肚(はら)作り、又ハ心を練る修行をなさっておるのです。徳を受けるチャンスは、いつもある訳ではありません。いよいよの時、迷わんですむ、動じないですむ、生命(いのち)をかけての信心が出来ねバなりません。
即ち「ままよの心」です。背水の陣です。一切をまかせきっての次の信心姿勢一つが徳をうける極手(きめて)です。

金光教亀有教会ミニ御理解

「向こう倍力」とは「相手・難儀な事柄など、向かってくるものの倍の力という意味である」(『金光教教典用語辞典』より)

つまりは「こちらに打ち向かってくるような相手や難儀」があってこそ「倍力の徳」が受けられるということであり、裏を返せばそれがなければ「倍力の徳」は受けられないということでもある。いよいよ、そういう相手や難儀こそ最大限に御礼を申すべき対象である。

2019年7月3日

御理解第14節

神は荒れ地荒れ屋敷をお嫌いなさる。

初代金光教合楽教会長・大坪総一郎師ミニ御理解(昭和50年7月28日)

地面を荒らすことは、それだけ神さまのお働きの場を狭くすることです。人間は勝手なもので、収入が少ないと言って田畑まで荒らして居る人があります。
自分中心ではおかげになりません。神様を中心にすれバ、地面を御地面にすることが出来ます。
天地の親神様も満足なら、教祖さまにも喜んで頂くことになります。

金光教亀有教会ミニ御理解

荒れ地、荒れ屋敷にしないためには、普段からよく掃除や手入れをしておく必要がある。心もまた然り。
手間ひまかけていくことを惜しむことなかれ。粗末にしてしまうことが荒れ地、荒れ屋敷、荒れ心の元。

2019年7月4日

御理解第15節

氏子が真(まこと)から用いるのは神もひれいじゃが、寄進勧化(きしんかんげ)をして氏子を痛めては、神は喜ばぬぞ。

初代金光教合楽教会長・大坪総一郎師ミニ御理解(昭和50年7月29日)

親神さまなれバこそと思います。
無理をしてのお供えを親神さまが喜ばれるはずがない。
しかし、おかげうけて呉(く)れよの御心から氏子の真心を求められ、育って呉れよの親心を思う時、じっとして居(お)れぬのは私共の有様です。
一工夫も二工夫も要る御教えです。
親神さまに喜んで頂ける、しかも安心して頂ける御用でお役に立ちたいものです。

金光教亀有教会ミニ御理解

この御理解は「寄進勧化をして氏子を痛めては、神は喜ばぬぞ」という部分に目がいきがちですが、「氏子が真から用いるのは神もひれいじゃ」という部分もしっかり味あわせて頂きたいものです。
寄進だけに限らず、とりわけ神様事に向かう姿勢は真から用いていきたい。参拝、御祈念、御用・・・、あなたにとってその姿勢はどこから端を発していますか?
「しなくてはならない」ではなく「せずにはおられない」、「鞄を持ってもいいですよ」ではなく「鞄を持たせてください」の姿勢です。

2019年7月5日

御理解第16節

無常の風は時を嫌わぬというが、金光大神の道は、無常の風が時を嫌うぞ。

初代金光教合楽教会長・大坪総一郎師ミニ御理解(昭和50年7月30日)

無情即ち有情(うじょう)と悟らして頂けるところに安心立命の世界があります。
やりぬく心から、頂きぬく心に変わります。
今日、あたかも戦死いたしました弟の三十年の式年の祭が、午後から行なわれます。それにつけても御神慮(ごしんりょ)の深さにいよいよ恐れ入ります。
人間心を以(もっ)てするなら終戦の年、しかも七月三十日という、あと十五日生き延びのおかげを受けて居れば無事生還出来たものを・・・・・・。
ここまでは無情の風であります。弟の死を境に、私共一家の信心が有難く一変いたしました。
今の合楽の御比礼(ごひれい)を思います時、無情即ち有情を感じざるを得ません。

金光教亀有教会ミニ御理解

自分自身があの世に旅立つ時、後々の者にはどんな風に送ってもらいたいですか?「無常の風は時を嫌わないのか」という思いで送られたいでしょうか?私の場合は自分がいかなる旅立ち方であったとしても、「ありがとう」とか「やっぱり神様のお繰り合わせの中でのことだね」という思いで送ってもらう方が嬉しく思います。

人を送る時も自分が旅立つ時も、和賀心で送り和賀心で旅立ちたい。
 
2019年7月6日
 

御理解第17節

神の綱が切れたというが、神は切らぬ。氏子から切るな。

初代金光教合楽教会長・大坪総一郎師ミニ御理解(昭和50年7月31日)

朝顔ハ 馬鹿な花だよ 根もない竹に 命までもと からみつく

根もないものにすがっておるものを嘲笑(ちょうしょう)した唄でしょう。信心を頂いていても、「神も仏もあるものか」というような事に出会う場合もありますが「根のあるもの」、生きた働きのある信心を頂いていますと、どんなに失意の底にありましても、その前後に必ず生きた神の働きに会うことが出来ます。おかげで神の綱を切ることなく信心を続けることが出来ます。問題ハ入信の時、生きたものがあるかないかを確かめることが大事です。

金光教亀有教会ミニ御理解

氏子が自ら綱を切ってしまわないようにすることもさることながら自分では切ったつもりではなくても、いつのまにか切れていたということもないようにしたい。自らが自覚していないところで綱が切れてしまっていたとしたら、こんなに切ないことはない。
御取次を願い、御取次を頂く。信心を我流にしないよう心がけていくことが、知らぬ間に綱を切らさないための要です。
 
2019年7月7日
 

御理解第18節

此方(このかた)のことを、神、神と言うが、此方ばかりではない。ここに参っておる人々がみな、神の氏子じゃ。生神とは、ここに神が生まれるということで、此方がおかげの受けはじめである。みんなもそのとおりにおかげが受けられるぞ。

初代金光教合楽教会長・大坪総一郎師ミニ御理解(昭和51年7月1日)

心に花園を。四季折々の花が咲き乱れ、其の中に住む手立てが信心修行である。『生神とはここに神が生れると云(い)ふ事で』と教祖は教えています。
炎天下の下にも喜びがあり、極寒といえども工夫次第では喜びの花が咲きます。いつでもどこでもよろこべる喜びの種子(たね)を播(ま)いておこう。
喜びの芽が出たら、枯らさず折らず育てるよろこびを身につけてゆこう。
我情我欲が無惨に喜びの芽を踏みにじる。

金光教亀有教会ミニ御理解

御理解第2節の「神徳は、信心すればだれでも受けることができる」という御教えと共に、凡夫の浅知恵をかなぐり捨て、素直に頂かなければならない御教えだと思います。「みんなもそのとおりにおかげが受けられる」と仰せられるのですから、本気で生神を目指さなければなりません。「いや、私のようなものが・・・」とか「生神なんて誰でもなれるものではない」とか妙な謙遜、先入観を外していかなければなりません。
金光教を信仰しているつもりでも金光教祖の言うことよりも自分の価値観が優先されるなら、それは金光教ではなくただの「自分教」です。合楽の初代親先生は「教祖様が嘘を仰るはずがない、嘘のように感じるのであれば、それはこちらの信心が足りないからだ。」と教祖様の御教えをぞっこん(底根)信じ、頂き抜かれました。金光教の信奉者であるならば、まずは自分よりも金光教祖を信じ、金光教祖の御教えを本気で守り、行じていくことです。それが生神になるための第一歩です。
 
2019年7月8日
 

御理解第19節

金光大神は形がのうなったら、来てくれと言う所へ行ってやる。

初代金光教合楽教会長・大坪総一郎師ミニ御理解(昭和51年7月2日)

「去来(きょらい)するもの」
それは金光大神取次の働きの場である此処(ここ)にはじまる。
来てくれと言う所に。
頼む時だけでなく、御礼を申すときもお詫びの時も来てもらわねばならぬ。

金光教亀有教会ミニ御理解

御取次には御結界の先生が氏子の願いや思いを取り次ぐ「結界取次」と、永世生き通しの神として立たれた教祖様による「生神金光大神取次」との二つがあります。教祖様は御在世中、「金光大神は形がじゃまになって、よそへ出ることができない。形がなくなってからは、来てくれと言う所へ、すぐに行ってやる。」と仰せられ、形がなくなればこそ縦横無尽に氏子の救済に駆け回ることが出来るようになることを説かれました。
私は一日の生活の中で「金光様」「金光大神様」と心の中で唱える場面が何度もあります。何か行動を始める時、不意なことが起こった時、おかげを頂いたと感じた時、反対に物事がなかなか思うようにいかない時も・・・、ですから金光大神様にはたった一日の生活の中でも、しょっちゅうお越し願っております。永世生き通しと言われる生神金光大神取次のお働きを信じているからであります。せっかく「形がのうなったら、来てくれと言う所へ行ってやる」と仰せられるのですから、遠慮したり面倒くさがったりしてはもったいないことです。

2019年7月9日

御理解第20節

此方(このかた)が天地金乃神よりおかげを受けておることを話にして聞かすのぞ。疑うて聞かぬ者は是非におよばず。かわいいものじゃ。また時を待っておかげを受けるがよし。めいめいに子を持って合点せよ。親の言うことを聞かぬ子が一番つまらぬ。言うことを聞かぬ子は、親もしかたがあるまいが。

初代金光教合楽教会長・大坪総一郎師ミニ御理解(昭和51年7月3日)

この御理解は、信心のない者に対するものとばかりはかぎらない。
信心しながらも教えを頂かず、教えを守らないなら、親の言うことを聞かぬも同じこと。
なぜ聞けぬのか。
それは『合点(がってん)』がないからです。合点とは親心との一致点がないから、親の心がわからないから。
親の心がわかれば親不孝は出来ぬ。神の心がわかれば信心せずにはおれぬ。

金光教亀有教会ミニ御理解

「疑うて聞かぬ者は是非におよばず。かわいいものじゃ。」という御思いと、「親の言うことを聞かぬ子が一番つまらぬ。言うことを聞かぬ子は、親もしかたがあるまいが。」という御思い。相反するような文言ですが、どちらも氏子を思う一念からであり、親神様の悲しいまでの御思いを感じさせる御理解です。
疑いや観念を外し、親神様が氏子を思う一念をもって、私たちも親神様の御思いを求めてゆけ。日々の成り行きの中に親神様の御思いは鏤(ちりば)められている。真摯に求めてゆけば必ず、親神様が氏子を思う一念と、氏子が親神様を思う一念との「合致点」は見出されてくる。

 「天地(あめつち)の 心しりたし道あらば しめせ天地(あめつち)
  おのが心に」(初代金光教合楽教会長・大坪総一郎師教歌)

2019年7月10日

御理解第21節

信心せよ。信心とは、わが心が神に向かうのを信心というのじゃ。神徳の中におっても、氏子に信なければおかげはなし。
カンテラに油いっぱいあっても、芯がなければ火がともらず。火がともらねば夜は闇なり。信心なければ世界が闇なり。

初代金光教合楽教会長・大坪総一郎師ミニ御理解(昭和51年7月4日)

 人の世から神の世へ
 闇の世から光の世へ

わが道の信心は心が『神に向ふのを信心と云(い)ふのぢゃ』。
わが心が一歩一歩神に近づく修行です。
悪がぬけ我(が)がぬけて行く其の喜び楽しみから、次第に苦しみがぬけてくる。
そういう人達の集りこそ、神の世であり光の世である。
光の輪をつくろう。
さらにそれを拡げてゆこう。
世直しのおかげを頂こう。

金光教亀有教会ミニ御理解

「信心とは、わが心が神に向かうのを信心というのじゃ。」と教えておられます。「わが心がおかげ、御利益に向かうのを信心というのじゃ」とは教えておられません。わが心がおかげや御利益ばかりに向いて、肝心の神様に向かうことが疎かになっている節はあるまいか。
わが心が神様に向かわなければ心に信(芯)はなく、火もともせません。どれだけ御利益やおかげを頂いたとしても、心に火をともせねば目の前が真っ暗になるようなことが起こったら、たちまち難渋しなければなりません。
わが心を常に神様に向けて心の中に信(芯)を出し、いつでも火をともせるようにしておこう。