2020年7月01日~11日

2020年7月1日

御理解第43節

死んだからというて、神のおかげを受けずにはおられまいが。死に際にもお願いせよ。

初代金光教合楽教会長・大坪総一郎師ミニ御理解(昭和51年7月26日)

  露草の 露よりもろき 生命(いのち)かな

故人になられた久富くにかさんが、生前に頂かれた御理解です。
現世(げんせ)において生きたところで、五十年か百年です。魂の世界は、かぎりなき無明(むみょう)の世界と頂きます。
光明世界とは、自らが頂きもつところの光によるもので、光をもつ者のあるところこそ光明の世界です。
現世にあっては、いよいよ魂を清め高めておかぬと、死に際だけでは心もとないかぎりです。

金光教亀有教会ミニ御理解

人の性分は良きにつけ悪しきにつけ、とりわけ死に際にこそ顕著に現れる。死に際になってから慌てても取り繕うことはできない。
死に際にもお繰り合わせを頂き、真摯な願いが出せるような自分にならせて頂くことを願え。

2020年7月2日

御理解第44節

狐狸(きつねたぬき)でさえ、神にまつられることを喜ぶというではないか。人は万物の霊長(れいちょう)なれば、死したる後、神にまつられ、神になることを楽しみに信心せよ。

初代金光教合楽教会長・大坪総一郎師ミニ御理解(昭和51年7月27日)

教祖は『この世で神にならずして、あの世で神になれるか』と教えています。神になるとは、霊長としての値打ちを発揮することです。我情我欲をはなれることです。
そこには霊徳、神徳が渾然(こんぜん)として一つになる世界があります。いわゆる『神徳の中に生かされてあり』の実感です。
『死したる後、神にまつられる』ということは、吾(わ)が心が神に向こうて行くことを楽しみに生涯かけて精進して行くことをいうのです。

金光教亀有教会ミニ御理解

「神にまつられ、神になる」 とはどういうことであろうか。そのために必要なものとは何であろうか。それは「徳を積む」ということに他ならない。「神にまつられ、神になることを楽しみに」するということは「徳を積んでいくことを楽しみに」するということである。

お酒を飲みたい、旅行に行きたい、財産を蓄えたい、趣味に没頭したい・・・、人にはそれぞれにいろんな「楽しみ」があると思いますが、「万物の霊長」である人間として「徳を積みたい」ということこそが最高峰の楽しみである。

2020年7月3日

御理解第45節

世に、三宝様(ふ)踏むな、三宝様踏むと目がつぶれるというが、三宝様は実るほどかがむ。人間は、身代ができたり、先生と言われるようになると、頭をさげることを忘れる。神信心して身に徳がつくほど、かがんて通れ。
とかく、出るくぎは打たれる。よく、頭を打つというが、天で頭を打つのが一番恐(おそ)ろしい。天は高いから頭を打つことはあるまいと思おうけれど、大声で叱(しか)ったり手を振(ふ)りあげたりすることはないが、油断をすな。慢心(まんしん)が出ると、おかげを取りはずすぞ。

初代金光教合楽教会長・大坪総一郎師ミニ御理解(昭和51年7月28日)

お徳をうけよ、お徳をうけても油断すなとの御神慮(ごしんりょ)を感じます。
本日、教徒新聞の「先師を語る」欄に安武松太郎師のことが掲載(けいさい)されておる中に、「千にあまる会葬者が教会から墓地まで続いた。当日は雪と雨にはさまれた好天気で、ひとえにお繰り合わせであった」と。ここまで読ませていただいた時、しばらくどうする事も出来ぬ感動を禁じ得なかった。
四十五年間というお取次のおごくろうの中には雨の日も雪の日も又、あったことだろう。
それら一切を神の恵みとして受けぬかれた師のご信心は正(まさ)に、この御理解を守り現わされた鑑(かがみ)ではなかろうか。

金光教亀有教会ミニ御理解

教会で御用を続けていると表のことであろうが、裏のことであろうが、天地は見抜き見通しだということがよく分かります。
 
この食材を切らしたと話していたら、すかさずその食材のお供えがあったり、あの方はどうされているだろうかと話していたら、しばらく音信のなかったその方から、すぐ連絡があったりという具合です。先日も夜、ある教会の先生のことを少々、面白おかしく話したことがありました。そうしたらその日の夜遅くになって、その先生から突然、「先日、貴教会に○○をお供えさせて頂きました。」という丁重なメールが届きました。驚くと共にやはり油断ならないなと改めて思いました。
 
教祖様は「神は天地を一目に見ておる」と教えられました。人の目には映らなくても神様には筒抜けであることを肝に銘じておきたいものです。
 
2020年7月4日
 

御理解第46節

痛いのが治ったのがありがたいのではない。いつもまめながありがたいのぞ。

初代金光教合楽教会長・大坪総一郎師ミニ御理解(昭和51年7月29日)

「本日もおかげさまで火難、盗難、水難、家内安全、無病息災の大みかげを蒙(こうむ)りまして、誠に有難い一日でございました。厚く御礼申し上げます」との祈りは、毎晩、就寝(しゅうしん)前のご祈念の時の心からの御礼の詞です。
それには、このことは毎朝、心よりのご祈念の内容でもあるわけです。
痛い思いをする前の願いの信心が必要であります。いかにも欲張った信心のようですが、おかげを受けねば信心の真(まこと)を現わすことが出来ませんから。

金光教亀有教会ミニ御理解

あなたが「ありがたい」と思う時はどんな時ですか?

信心する者はありがたいという思いが出てくる元つところを年々、洗練されたものにしていきたい。

2020年7月5日

御理解第47節

祈れ薬れにすればおかげも早いが、薬れ祈れにするからおかげにならぬ。

初代金光教合楽教会長・大坪総一郎師ミニ御理解(昭和51年7月30日)

病気だけのことでなく、すべてに神さまを中心にしてという御神意です。
今朝、福岡の龍さんが御礼参拝されました。先日より宮崎に縁についておられるお嬢さんより、お孫さんの急病の知らせがあり、すぐ来てくれとのことであった。取り敢(あ)えずお取次を頂いてと、こちらにお願いに見えました。
そこで、私ハ貴女(あなた)が宮崎に行かれたからといって、病気が治る訳でもありません。あちらのことは神さまにお任せして一心にこちらにお参りなさい、と申しましたから心が決まり、毎日参拝でき、今日の御礼参りの出来るおかげになったのです。

金光教亀有教会ミニ御理解

薬を飲むなということではない。どこまでもまずは神様を先に立てよということである。薬があって神様があるのではない。食物同様、薬も神様のお恵みを受けて生まれたものである。神様頂きますという心があってこそ薬も薬として引き立ってくる。同じ薬でも何の感謝や断りもなく頂くのと合掌して押し頂くのとでは、その後の様相は大きく違ってくる。神様よりも薬をあてにして頂くこともまた然りである。たとえ治ったとしても、そのことがかえって難儀やめぐりのもととなってしまわぬようにしたい。

2020年7月6日

御理解第48節

わが子の病気でも、かわいいかわいいと思うてうろたえるといけぬぞ。言うことを聞かぬ時に、ままよと思うてほっておくような気になって、信心してやれ。おかげが受けられる。

初代金光教合楽教会長・大坪総一郎師ミニ御理解(昭和51年7月31日)

『ままよと思うて放(ほ)っておくやうな気になって』と言うことは、自分の欲や情を捨てた姿ですから、神さまに充分の働きが頂ける場を作るようなものです。
その上『信心してやれ』とは、いよいよ信心を進めてゆけと言うことです。
四十八節とは、いつもがおかげのチャンスと言うふうに思います。
常平生がこの気持ちにさせて頂くなら、間違いない御神徳がうけられます。

金光教亀有教会ミニ御理解

「ままよと思うてほっておくような気になって」と言っても、やけからくるままよということではない。神様に任せきり、すがりきってのままよということである。
放っておくのはわが子を放れということではなく、自分自身の不安心配、執着といったものを放れということである。この神様は氏子がそれらのものを外すことによって自由に動いていかれる神様である。
 
2020年7月7日
 

御理解第49節

信心は相縁機縁(あいえんきえん)。

初代金光教合楽教会長・大坪総一郎師ミニ御理解(昭和52年7月1日)

難儀が機縁を作り「おかげ」が相縁を生む。
「袖(そで)すり合うも他生(たしょう)の縁」と言うなかに、親と呼ばれ子と呼ぶほどの深い縁はなけれども、その深い縁を袖にする親不孝、子不孝のものがある。
折角(せっかく)、親神様との縁を頂きながら、親子の縁を結びもせず、神をはなれるほど、神を悲しませることはない。
教祖ハ『信心は親に孝行するも同じことぞや』と教え給う。

金光教亀有教会ミニ御理解

「神縁(しんえん)まことに不思議にして 今この道に出(い)で会うを得たり」(神前拝詞の一節)
 
私には叔父・叔母・甥・姪・従兄弟が100人以上もいますが、そのうちのおよそ半数の人たちとは、ほとんど面識がありません。また気がつけば実の両親と一緒に過ごした時間よりも、赤の他人の教会長と一緒に過ごしている時間の方が長くなってこようとしています。
 
人と人とのつながりは「血縁」よりも「御神縁」だなとつくづく思います。そしてその縁を生かし、その縁に生かされていくのが信心であります。
 
2020年7月8日
 

御理解第50節

とかく、信心は地を肥やせ。常平生からの信心が肝要(かんよう)じゃ。地が肥えておれば、肥をせんでもひとりでに物ができるようなものぞ。

初代金光教合楽教会長・大坪総一郎師ミニ御理解(昭和52年7月2日)

天地の大恩を悟(さと)れバ自ずと報謝の心が湧(わ)いてくる。大きな心も豊かな心も自然に出来てくる。
大きな心に大きなおかげ。豊かな心に豊かなおかげ。

一、天地への還元ハ天地を肥やし

二、先祖への真心の奉仕ハ家の根を肥やし

三、いやなもの、いやなこと、すべてが心のこやし

金光教亀有教会ミニ御理解

「地を肥やす」ということと「常平生からの信心」の大切さを説かれています。「おかげ信心」や「困った時だけの信心」では自分一人だけの堂々めぐりの信心に終わります。信心の眼目を「おかげ信心」ではなく「地を肥やしていく信心」に、「困った時だけの信心」ではなく「常平生からの信心」に置くことです。
 
地(心)が肥えてなければ、良い種がまかれても(おかげを頂いても)良いものは育ちません。
常平生からの信心(稽古)でなければ、いざというとき(本番で)通用しません。
 
2020年7月9日
 

御理解第51節

天地の間に住む人間は神の氏子。身の上に痛み病気あっては、家業できがたし。身の上安全を願い、家業出精(しゅっせい)、五穀成就、牛馬にいたるまで、氏子身の上のこと何なりとも、実意をもって願え。

初代金光教合楽教会長・大坪総一郎師ミニ御理解(昭和52年7月3日)

親神なれバこそ、氏子なればこそ、願い願われることである。
身の上のこと、氏子が幸せになるための一切が願われる。それは幼児(おさなご)が母の膝(ひざ)に乳を求めてすがるように、無心であり純真そのものである。

『実意をもって願え』とはそのような道理を知り、このような心で願うのである。

金光教亀有教会ミニ御理解

神様と氏子との間柄は親子のような間柄です。「こんなことを願っても良いのかしら」と下手に遠慮したり謙虚が過ぎると、かえっておかげを頂けません。
氏子に願われてこその神様です。何でも聞き届けてくださいます。「こんなこと」ほど実意に、丁寧に願っていけば良いのです。せっかく「牛馬にいたるまで、氏子身の上のこと何なりとも」と仰せられているのですから。
 
2020年7月10日
 

御理解第52節

信心する者は驚(おどろ)いてはならぬ。これから後、どのような大きな事ができてきても、少しも驚くことはならぬぞ。

初代金光教合楽教会長・大坪総一郎師ミニ御理解(昭和52年7月4日)

何時(いつ)どのような事が起きても、それはどこまでも神さまの間違いない働き、金光大神御取次の圏内にあることと解っていても、吃驚仰天(びっくりぎょうてん)するような事がある。
『驚いてはならぬ』と仰せられるが、そこは凡夫のこと、少なからず心は動揺する。そんな時は神さまに心を向け、心を鎮(しず)める願いをする事である。
神さまは少しも驚いていぬかのような、おかげを下さるものである。出来ずとも出来たかのようにおかげを下さる。
金光大神のおかばいがあるからである。 

金光教亀有教会ミニ御理解

ことが起こっても驚ろかずに済むのが一番でありますが、驚くなと言ってもそこは生身の人間、生きていればどうしても驚いてしまうようなこともあります。しかし本当に大事なのは驚いた後の心の行く先です。驚いた後の心が不安・心配や何かを責める方向へと向かうのか、それとも神様、そしてわが心の改まりへと向かうのかで大きく変わってきます。驚きや驚きを引き起こす事象そのものが運命を形づくっていくのでなく、それを受けてのその後の自らの心のありようが運命を形づくっていくのです。
 
「おどろきありても信心する者には心配なし。」
おどろきから治まりになり。」(『金光大神覚書』『お知らせ事覚帳』の一節)