2018年7月11日~20日

2018年7月11日

御神訓

疑いを去りて信心してみよ。みかげはわが心にあり。

初代金光教合楽教会長・大坪総一郎師ミニ御理解(昭和50年7月3日)

 ○ 祈ってみるでなく祈ること。
 ○ 参ってみるでなく参ること。
 ○ お取次を頂いてみるでなくお取次を頂くこと。
 ○ 御教えを聞いてみるでなく拝聴すること。
 ○ 教えを行じてみるでなく行ずること。
そこには疑う余地のない神の働きが起こってくる。
『霊験(みかげ)は我心(わがこころ)に有り』とは、こんな信心から生まれてくる。

金光教亀有教会ミニ御理解

疑いを持つこと自体は決して悪いことではない。疑うということは、少なからずそれだけ関心があるということでもある。疑いが取れたら、それはそのまま信心への活力となる。
一番つまらないのは無関心である。

2018年7月12日

御神訓

わが身がわが自由にならぬものぞ。

初代金光教合楽教会長・大坪総一郎師ミニ御理解(昭和50年7月4日)

「生命あるかぎり御用をさせて頂きたい」の願いが通れば身の自由は許される。
自由を許されてあるときに「させて頂く」事の喜びを、人の世の為に尽くすこそが神への御礼と心得よ。

     四代教主様御歌

 なすと云へ なし得る条件 恩恵の
    なくばなし得ず 何ひとつとして

金光教亀有教会ミニ御理解

神様のおかげを頂かなければわが身のみならず、わが心すらも自由にならない。自分の体は自分で動かしているのではない、神様のおかげを頂いて動かせて頂いている。心についても同じ。体を動かしたくても思うように動かせない人は沢山いる。元気な心になりたくても元気になれない人もまた山ほどいる。いよいよのところ体ひとつ、心ひとつがままならないのが私たち人間の実相である。
許されてこそ動かすことができる体と心、あなたはどのように使わせて頂きますか?

2018年7月13日

御神訓

忌(い)み汚(けが)れは、わが心で犯すこともあり払(はら)うこともあり。

初代金光教合楽教会長・大坪総一郎師ミニ御理解(昭和50年7月5日)

すべての事に御(おん)の字をつけて頂ける内容が出来ると、穢(けが)すことも犯されることもありません。
信心にも度胸が要ります。神を信ずることから生まれる『ままよの心』をつくってゆくのです。
ままよの心の前には、たとえ悪神邪神(あくじんじゃしん)といえども、これを避けて通るのです。
何事も御事柄(おんことがら)として頂ける心と信心度胸、いわゆる『ままよの心』が出来れば、いよいよ鬼に金棒です。

金光教亀有教会ミニ御理解

「忌み」という漢字は「己の心」と書きます。これは忌々しい、これは汚らわしいと思い込んだり、とらわれすぎるあまり、己の心そのものを汚さないようにしたいものです。

2018年7月14日

御神訓

祈りてみかげのあるもなきも、わが心なり。

初代金光教合楽教会長・大坪総一郎師ミニ御理解(昭和50年7月6日)

この御教えを神さまの側から言えば、おかげを授けるも授けぬも神の心次第ということになる。
そこで私共としては神さまの心を悟り、神さまの御心に添い奉(まつ)ることに専念するより他にないのである。
授けたいと願われる神さま、授けて頂きたいと願う私共、その両者が相対(あいたい)したのである。おかげにならぬはずがない。
もしもおかげにならぬなら両者の仲に何か障害があるのです。
それを取り除くことです。

金光教亀有教会ミニ御理解

「祈りてみかげのあるもなきも、わが心なり」ということは、「祈ればおかげが受けられる」ということでは決してないことがわかります。祈るなら祈るで、どういう心で祈らせて頂くか、また祈った後も、そのためにどういうが精進がなされているかが問われているのです
祈りっぱなし、願いっぱなしで、それが成就していくための稽古、工夫をおろそかにしては、神様もおかげを授けるにも授けられないのではないでしょうか?神様がこの氏子の祈り、頼みならと安心しておかげを授けて頂けるような心を追求していく姿勢が肝要です。

2018年7月15日

御神訓

用心は、前からたおれぬうちの杖(つえ)ぞ。

初代金光教合楽教会長・大坪総一郎師ミニ御理解(昭和50年7月7日)

あの人を杖とも柱とも頼んでいたのに、と嘆(なげ)く人があります。
人では頼りにならない、物も金も学識も本当の役にはたたぬと悟っての神を杖につけば、人も物も学識も総(すべ)て一切が生きて来る。
神が人間行動の原動力となるから心強い生活が出来るのです。

金光教亀有教会ミニ御理解

用心すべきところを用心せずして神様お任せしますというのは余りにも横着です。人ながらが伴わなければ神ながらも引き立ちません。

2018年7月16日

御神訓

悪いことを言うて待つなよ、先を楽しめ。

初代金光教合楽教会長・大坪総一郎師ミニ御理解(昭和50年7月8日)

言葉にも魂があると言われます。有難い言葉を良いことに使わねばなりません。教祖さまは家庭内においても貴方(あなた)、此方(こなた)と呼べと教えられました。
悪いことを言うておると悪いことが起こって参ります。不平不足を言うておると益々(ますます)不平不足を言わねばならぬことが起こります。信心は神を信ずる稽古(けいこ)、更(さら)に神より信じられる稽古です。

金光教亀有教会ミニ御理解

教祖様最大の受難とも言える神前撤去の二日前、先々の生活を心配する教祖様ご家族に対し神様は次のように諭されました。
天地乃神とは、日天四、月天四、丑寅未申鬼門金乃神のこと。神のこと家内中忘れな。人を頼むことすな。良し悪しし、神任せにいたせい。心配すな。世は変わりもの、五年の辛抱いたし。とにかく、内輪きげんよういたし。もの言いでも、あなたこなたと申してよし。何事もあだ口申すな。
それから二ヶ月後に天地書附が誕生しました。悪いことを言いたくなる、その先にこそかけがえのないものが用意されているのです。

2018年7月17日

御神訓

やれ痛やという心で、ありがたし、今みかげをという心になれよ。

初代金光教合楽教会長・大坪総一郎師ミニ御理解(昭和50年7月9日)

良薬は口に苦(にが)しと申します。
苦ければ苦いほどその効果があると思いますように、そこに難儀を感ずれば感ずるほど有難しの心が湧(わ)いてまいります。
何故(なぜ)ならば、此の神さまハ愛の一念より外にない神さまとわかるからです。

金光教亀有教会ミニ御理解

同じありがたいでも平穏無事であることや自分にとって都合の良いことがあってのありがたいと、痛い苦しい、悲しいことの中からでも出てくるありがたいとでは価値、意味合いが違ってくる。痛い苦しい中にも御礼が出てくる子供を見たら、親としてこんなにもいじらしく、愛おしく感じることはない。いよいよ放ってはおけなくなってくる。親心を鷲掴みするほどのものである。

2018年7月18日

御神訓

神の教えも真(まこと)の道も知らぬ人の哀(あわ)れさ。

初代金光教合楽教会長・大坪総一郎師ミニ御理解(昭和50年7月10日)

大学の門をくぐり裏門から出た人が、「大学に行った」「門をくぐった」と言った。笑(わら)い話である。信心も只教会の門をくぐった、という人がある。
信心の血にも肉にもなって居ない。信心の素通りである。教えも守らず真の道も行ぜずでは、おかげは受けても人間の幸福にはつながらぬ。これでは哀れとも悲しいとも言いようがない。楽がしたいからの信心ではやはり哀れにつきる。楽はさせて下さるのでなければ本当の幸福につながらぬ。

金光教亀有教会ミニ御理解

信心をしているからといって神の教えや真(まこと)の道を知ったとは言えない。このみ教えは決して信心をしていない人だけに向けられているみ教えではない。まずは自分自身に向けて吟味検討されるべきみ教えである。

2018年7月19日

御神訓

神は声もなし、形も見えず、疑わば限りなし。恐(おそ)るべし、疑いを去れよ。

初代金光教合楽教会長・大坪総一郎師ミニ御理解(昭和50年7月11日)

信じたいから疑いをもつなら神ハその働きを見せて下さる。疑って疑って真実の神を見る例もあります。
素直に神に向かう、そこから疑おうにも疑えぬおかげの証(しるし)が見えてくることもあります。
信は力なり信は光なりとも言われます。暗い所に居(お)っても光があれバ怖いことはありません。力があれバ恐れる心もなくなります。神ハ声もなく形もないが、其の働きを示される。

金光教亀有教会ミニ御理解

神を疑うこともさることながら、神を信じきれないのももどかしいことである。神を信じられる根拠が、ただおかげ(ご利益)をくださるからということだけでは、事が起こればたちまちその根拠は揺らぐこととなる。いついかなる時も神を信じられる心であり、神様からも信じて頂ける心を「神信心」という。

2018年7月20日

御神訓

真心(しんじん)の道を迷わず失わず末の末まで教え伝えよ。

初代金光教合楽教会長・大坪総一郎師ミニ御理解(昭和50年7月12日)

徳の雫(しずく)が小川に落ちて川に流れて大海に注ぐ。そこにはすでに一(ひと)雫の水でなく大海の水そのものであります。
祖母の信心ハ素朴そのものでした。お土を異常なまでに大切にしました。特に食物ハ一粒の米でも押し戴(いただ)きました。
御祈念の時ハ私共三人の孫の名前を称(とな)えながら「どうぞ世のお役に立つ氏子にお取り立て下さい」と繰り返し繰り返し、唱えるように願って居(お)りました。
其のような信心が両親に伝わり私共に伝承され、今日の合楽があります。
お土を大切にし食物をおし戴く心ハ、そのまま天地の真(まこと)を真として受けていた姿ではないでしょうか。
又、祖母の祈りはそのまま神さまの願われる心と同じではなかったでしょうか。

金光教亀有教会ミニ御理解

「真心(しんじん)の道」という言葉が「信心の道」ではなく「真心の道」とされているところを味合わせて頂きたい。
三代金光様は、いわゆる金光教のお家騒動とも言われた昭和九・十年事件のただ中にあって、迷うこともなければ失うこともなく、高ぶることもなければうろたえることもなく、淡々と「教祖様の御教えのまこと(真)の道が、まこと(真)の道に通るようお願い申せばよろしい」と仰せられたという。
教団の存続をも危ぶまれるようなお家騒動があろうが、お国の存続が危ぶまれるような戦争が勃発しようが、ぶれることなく淡々と「まこと(真)の道が、まこと(真)の道に通るよう」つとめ抜かれたご姿勢があって今日の私たちがある。
いかなる中にあっても迷わず失わず、連綿と貫いていく姿勢が末の末までへと教え伝わっていく原動力となる。
今、あなたが日々、貫いていっているものは何ですか?