2019年7月11日~20日

2019年7月11日

御理解第22節

天地金乃神といえば、天地一目に見ておるぞ。神は平等におかげを授けるが、受け物が悪ければおかげが漏(も)るぞ。神の徳を十分に受けようと思えば、ままよという心を出さねばおかげは受けられぬ。ままよとは死んでもままよのことぞ。

初代金光教合楽教会長・大坪総一郎師ミニ御理解(昭和51年7月5日)

常日頃いっぱしの信心が出来ておらんと、いざという時「ままよ」という心ができぬ。
信ずる心が安心。「ままよ」の心から信が生まれる。
神は信ずる者を信ずる。

御神徳は神さまのご信用じゃから。(久留米教会初代石橋先生のお言葉)

金光教亀有教会ミニ御理解

常平生からの稽古なくして、いざという時「ままよ」の心は出てこない。日々の生活の中で毎日のように起きてくる思うようにならない、都合の悪いことに対して我(が)を外して受けていく、つまり「小さなままよ」の心を積み重ねていくことが稽古の中身となる。自転車(我力)をこいで進むような生き方から、お徳の車(神様任せ)に乗らせてもらう生き方を普段から稽古させて頂こう。それがいざという時の原動力となる。

三代金光様おことば
『氏子が神さままかせなら、神さまが氏子まかせになると仰せられますから。』

任せていけば氏子任せの働きが現れ、余計な力みも次第にとれてくるから稽古も楽しくなってくる。

2019年7月12日

御理解第23節

氏子が神と仲ようする信心ぞ。神を恐れるようにすると信心にならぬ。神に近寄るようにせよ。

初代金光教合楽教会長・大坪総一郎師ミニ御理解(昭和51年7月6日)

難儀は神さまと私共の仲立ちです。
そこから神さまとの交流がはじまります。難儀が神愛と悟れる頃には、いよいよ神さまとの仲に切っても切れぬ仲が生まれます。
神の働きそのままに受けてうけて受けぬく時、神の働きそのままのおかげの世界が生みなされて来ます。

金光教亀有教会ミニ御理解

「神を恐れるようにすると信心にならぬ」ということですが、人智人力が席巻する今の世の中にあって恐れるほどに神様を意識するということは価値あることだと思います。それだけ神様を大きな存在として捉えているのですから。

難儀を恐れる氏子は多いが、神を恐れる氏子が少ない。

まずは恐れるような存在になるまでに神を心にかけるようにせよ。

2019年7月13日

御理解第24節

人に誘われて、しょうことなしの信心は、つけ焼き刃の信心じゃ。つけ焼き刃の信心は取れやすいぞ。どうぞ、その身から打ちこんでの真(まこと)の信心をせよ。
世に勢信心ということを言うが、一人で持ちあがらぬ石でも、大勢かけ声で一度に力をそろえれば持ちあがる。ばらばらでは持ちあがらぬぞ。家内中、勢をそろえた信心をせよ。

初代金光教合楽教会長・大坪総一郎師ミニ御理解(昭和51年7月7日)

参拝に打ち込む、御祈念に打ち込む、教えに取り組む事に信心の喜びを感ずる。この喜びなしには自然との対決において敗れをとらねばならぬ。この対決こそ、真(まこと)の力は得られるのである。
力のない者が勢を揃えても、大したことは出来ない。
少しでも力を得たものが掛声も一つに勢を揃えた時、思いもかけぬ働きになってくる。

金光教亀有教会ミニ御理解

今から59年前の今日、合楽教会で「13日会」という会が発足しました。一月のうち、せめてこの日だけは御神願成就の日として、自分中心ではなく神様中心の一日として捧げようというのがその願いとするところであります。

自分中心の生活から、神様中心の生活へ。
生活のための信心から、信心のための生活へ。

生活の主体を神様であり、信心に置いていくことが付け焼き刃にならないための要です。

2019年7月14日

御理解第25節

信心は大きな信心がよい。迷い信心ではいかぬ。一心と定めい。

初代金光教合楽教会長・大坪総一郎師ミニ御理解(昭和51年7月8日)

私的なことから公のこと、はては天下国家の事に至るまで祈られる信心にすすみたい。
或る人、三代金光様に、
「金光様、あなた様はどのような事をお祈りなさいますか」
とお尋ね申し上げし時、
「ハイ、天下国家のこと、世界総氏子のことをお願い申します」
とお答えになった。
その人聞いておどろき、
「それハあまりものことです」
と申し上げるに、
「ハイ、大は小を兼ねます」
と仰せられたと。
これには只、恐れ入るばかりでした。
大きな信心には迷いがおこりません。迷いがおきたら自分の信心が小さいことを悟り、一つ一つ打開して大きな信心に進むことに一心になるのです。

金光教亀有教会ミニ御理解

恋人でも自分と一緒になる覚悟があるのやら、ないのやらではこの人と添い遂げたいという気にはなれません。神様と氏子との関係も「あなた以外にはおりません」との一心が定まってこそ、あなたと添い遂げんばかりの働きが現れてくるのです。

2109年7月15日

御理解第26節

信心に連れはいらぬ。ひとり信心せよ。信心に連れがいれば、死ぬるにも連れがいろうが。みな、逃げておるぞ。日に日に生きるが信心なり。

初代金光教合楽教会長・大坪総一郎師ミニ御理解(昭和51年7月9日)

只今の御祈念前に二人の方からこんなお届けがありました。一人は殺された夢、一人は自分が死んだ夢。
私は申しました。
「一遍(いっぺん)焼き直さんと本当の改まりが出来んよ」と。(死ぬということはメグリも一緒に死ぬとの意)
『日に日に生きるが信心なり』とは日に日に死ぬること。即ち、自我を殺すこと。そこから『日々(にちにち)が新(さら)』の信心が生まれる。他の追従を許さぬ独創的な「連(つれ)」の要らない信心が出来るようになる。

金光教亀有教会ミニ御理解

昨日、ウィンブルドンテニスの決勝戦が行われた。一度コートの上に立てば監督もコーチも助言一つ与えることが許されない中、五時間近く、孤独に戦い続ける選手の姿に驚愕した。
信心もたとえ家族や友人が一生懸命信心していたとしても、いよいよ行き着くところは自分と神様と一対一の世界である。誰も手助けすることも代わってあげることもできない。頼りにしたり当てにできるものは何もないのである。
一人でも神様との舞台に立ち続けていく基礎を日々積み重ね続けておけ。それが「日に日に生きる」ということの中身となる。

2109年7月16日

御理解第27節

昔から、あの人は正直者じゃ、神仏(かみほとけ)のような人じゃという者でも、だんだん不幸なことが重なって、世間では、どういうものであろうというようなことがあろうが。なにほど、人に悪いことをせぬ正直者でも、人がよいのと神に信心しておかげを受けるのとは別ものぞ。

初代金光教合楽教会長・大坪総一郎師ミニ御理解(昭和51年7月10日)

宗教学者でも精神家といわれる道徳者であっても、おかげハ受けられぬ。
「別物」と言われるおかげとは「楽」の下に「有難し」というおかげ。即ち、心身共に極楽に住めること。
貧争病のないおかげを受け、真善美の世界に住める信心者だけの味わいにひたることが出来る。

  茗荷(みょうが)栄える蕗(ふき)繁昌[妙賀栄える富貴繁昌]

金光教亀有教会ミニ御理解

この御理解は「人がよいのと神へのお粗末、ご無礼とは別ものぞ」と置き換えれば絵解きしやすくなります。
ここで言う「なにほど、人に悪いことをせぬ正直者」とは、まさに七墓を築かされるまでの教祖様御自身のことを指しているのでしょう。どれだけ人が良かろうが、正直者であろうが、どこでどのように神様にお粗末、ご無礼をしているのか計り知れないのが我々人間の実相ということです。
ですから信心していても、その自覚と意識がなければ「信心しておかげを受けるのとは別ものぞ」ということにはならないとも言えます。人間は「思い違い、考え違い」をしかねない存在であるということをよくよく心得、常に神様にお伺い、お断りをしていく姿勢を身に付けていこう。

2019年7月17日

御理解第28節

病人や代々難儀の続く人が神のおかげを受けるのは、井戸がえをするに、八、九分かえて、退屈してやめれば、掃除はできぬ、それで、やはり水は濁っておるようなもので、信心も途中でやめれば病気災難の根は切れぬ。井戸は清水になるまで、病気災難は根の切れるまで、一心に、まめで繁盛するよう元気な心で信心せよ。

初代金光教合楽教会長・大坪総一郎師ミニ御理解(昭和51年7月11日)

「吾、無力無能無才にして」の自覚。
あなたにすがらねバ助かりようのない私。あなたのおかげを受けねバここ一寸動けぬ私。一切をお任せするより他に道のない私。
それでもお役に立ちたい一念を燃やす時、あいよかけよの無限の道は開かれるのです。
途中で止めるにも止めようのない道が。

金光教亀有教会ミニ御理解

井戸がえは近世においては7月7日に行うことが多かったそうです。合楽の初代は数字の七を「改まり」と説かれました。改まりに改まり、磨きに磨いていくことが清水にしていくためのコツです。
ちなみに今日は7月17日です。

    改めて(7)
    一心に(1)
    改まって(7)
    まいりたい。

2109年7月18日

御理解第29節

桜の花の信心より、梅の花の信心をせよ。桜の花は早う散る。梅の花は苦労しておるから長う散らぬ。

初代金光教合楽教会長・大坪総一郎師ミニ御理解(昭和51年7月12日)

形のおかげを願うだけの信心は桜の花の信心。
心の助かりを願っての信心に御神徳が受けられる。梅野派なの信心をすれば花も実もあるおかげが頂ける。
痒(かゆ)いから掻(か)くのは桜の花の信心。痒いけれどもじっと辛抱する、これが梅の花の信心。
辛抱しているうちに徳がうけられる。

  霊徳はさくらの花の信心
  神徳はうめの花の信心

金光教亀有教会ミニ御理解

枝葉よりも 根元を
目先よりも 先行きを
楽よりも 手間ひまを
目に見えるものよりも 目に見えないものを
おかげよりも お徳を

  それぞれ、どちらも大事ですが、信心はかくありたい。

2019年7月19日

御理解第30節

神を信ずる者は多いが、神に信ぜられる者が少ない。

初代金光教合楽教会長・大坪総一郎師ミニ御理解(昭和51年7月13日)

「主従三世(しゅじゅうさんぜ)」と言うが、主人に対する恩愛の情、従者に対する憐憫(れんびん)の情あって、はじめて成り立つ言葉だと思う。
おかげを受けることによってはじめて、神を知り神を信ずることになる。
神の大恩がわかればわかるほど神恩報謝(しんおんほうしゃ)の心がつのる。
神に信じられる人々は、この神恩に応えつづける決心のついた人達である。

金光教亀有教会ミニ御理解

「親子は一世」「夫婦は二世」「主従は三世」

神様に信じられる前にまず親、子供、夫、妻・・・等々、近しい人に信じられていますか、慕われていますか。どれだけ「自分は神様を信じています」と言っても、近しい人から信じ、慕われていなければ神様もあなたを信じることはできないでしょう。

「神徳を受けよ、人徳を得よ」(神訓 2 信心の心得)

神様から信じられるようになれば自ずと夫婦、親子からも信じられるようになる。

2019年7月20日

御理解第31節

信心する者は、気の切り株に腰をおろして休んでも、立つ時には礼を言う心持ちになれよ。

初代金光教合楽教会長・大坪総一郎師ミニ御理解(昭和51年7月14日)

信心する者は木の切り株に腰を下ろすにも「お願いします」と言う心持ちになれよ。自ずと立つ時には礼を言う心がおきてくる。
汽車に乗るにも切符を見せて乗り、又、降りる時にも切符を見せて降りる様なもので、もし失(な)くしたらまた料金を払わねバならぬ。
すべてに行き届いたこの心掛けがいる。

金光教亀有教会ミニ御理解

世話になる すべてに禮を いふこころ (四代金光様お歌)

「世話になるすべてに」というところを味わわせて頂きたい。今、あなたが御礼を申し上げる時はどんな時であり、どんなことに対してでしょうか。都合の良いことが起こった時や人様に対してはもちろん、あらゆるものに分け隔てなく、幅広く、底深く御礼を申し上げれる心持ちになりたい。

どんな時でも、どんなことに対しても、御禮が言える心、拝(おろが)む心は信心の生命線です。