2018年7月21日~31日

2018年7月21日

御理解第1節

今、天地の開ける音を聞いて、目を覚ませ。

初代金光教合楽教会長・大坪総一郎師ミニ御理解(昭和50年7月13日)

天地の開ける音を聞くために、先(ま)ずは耳掃除から始めねばなりません。
何か障害になるものがつまっていたり、肝心の鼓膜(こまく)が破れていては、いかに大音声(だいおんじょう)で叫ばれても聞くことは出来ません。
いよいよ研(みが)き、いよいよ改まり、限りなく美しい心になる精進こそ、天地の開ける音を確かに聞きとることの出来る第一の手立てです。

金光教亀有教会ミニ御理解

天地の開ける音は、ただ座して待っているだけでは、いつまでたっても聞こえてはこないだろう。求めに求め、願いに願い、磨きに磨く姿勢が貫かれていく中から、時節とお繰り合わせを頂いてある日突然、聞こえてくるのではなかろうか。今すぐには聞こえてこなくても、聞こえる時節が訪れた時に聞き漏らさない精進を常平生から貫いてまいりたい。
脈々と 貫かれし精進ありてこそ その瞬間(とき)は訪れる

2018年7月22日

御理解第2節

先の世までも持ってゆかれ、子孫までも残るものは神徳じゃ。神徳は、信心すればだれでも受けることができる。みてる(尽きる)ということがない。

初代金光教合楽教会長・大坪総一郎師ミニ御理解(昭和50年7月15日)

すべてが神さまの御働きの中にあることと信ずればこそ、
 悪く言われても
 笑(わら)われても
 叩(たた)かれても
又、どのような場合にも人情を捨て神情一つで受けとめてゆけるのです。
ここで『神徳は信心すれば誰でも受ける事が出来る』と仰せられたのは、このような信心を言われたものと思います。
所謂(いわゆる)「信ずればなり」であります。

金光教亀有教会ミニ御理解

教師も信徒も、このみ教えを本気で信じよう、頂こうとする者が少ない。神徳は普通の人が頂けるものではないという、凝り固まった価値観を、いつまでたっても拭い去ろうとしていない。
教祖ははっきりと「神徳は信心すれば誰でも受けることができる」と教えられているのに・・・、結局、教祖自体を信じようとしていないか、信じきれていないのである。自分の価値観にこだわり、囚われているのである。
こういうことは私たちの日々の生活の中にも、そこここにあるように思う。信心は自分の価値観をかなぐり捨てようとするところに立たない限り先には進んでいかない。
数ある教祖様の御教えの中でも、とりわけこの御教えは信じきり、頂き抜いてまいりたいものである。

2018年7月23日

御理解第3節

天地金乃神と申すことは、天地の間に氏子おっておかげを知らず、神仏の宮寺(みやてら)、氏子の家屋敷(いえやしき)、みな神の地所(じしょ)、そのわけ知らず、方角日柄(ひがら)ばかり見て無礼いたし、前々の巡(めぐ)り合わせで難を受けおる。この度(たび)、生神金光大神を差し向け、願う氏子におかげを授け、理解申して聞かせ、末々まで繁盛(はんじょう)いたすこと、氏子ありての神、神ありての氏子、上下(かみしも)立つようにいたす。

初代金光教合楽教会長・大坪総一郎師ミニ御理解(昭和50年7月16日)

神人(かみひと)共に栄え行く道をここに初めて、『天地金乃神の申す事は』と、のっけから大音声(だいおんじょう)に宣言されているように思います。
天地の大恩恵を知らず、又どのような事が天地に対する御無礼になるか、難儀の元になっているかを知らず、其のわけを条理を尽くして説いてあります。
即ち『神仏の宮寺(みやてら)氏子の家宅(いえやしき)皆(みな)神の地所』又は『方角日柄ばかり見て』と、其のことだけでなく、人間の思いちがい考えちがいを指摘しながら、金光大神の理解を受け追求しつつ、神と人との理想郷実現を目指させています。

金光教亀有教会ミニ御理解

この神様は天地の間に住む生きとし生けるもの、すべてを包み込むほどの神様である。しかし「氏子、ここがお粗末ご無礼、思い違い考え違いなんだよ」と直接言って聞かせたり、手を出したりすることはできない神様でもあることが、この御理解から読み取れる。すなわちこの神様は全知全能というわけではないのである。いかにも頼りなく不完全な神様のように見える人には見えるかもしれない。
しかし、この神様はそのもどかしさ、歯がゆさを抱えながらも、投げ出すことなく、それでも氏子どうか気づいてくれよ、助かってくれよと、ずっとずっと願い続け、そのサインを出し続けてこられた。そしてついに教祖様という、その御思いに気づく氏子と出会われた。何という辛抱強さであり、心の広さであろうかと思う。全知全能でないが故に、私はその大きさ広さを感じてやまない。私たちの心もかくありたいと心から願う。

2018年7月24日

御理解第4節

此方(このかた)金光大神あって、天地金乃神のおかげを受けられるようになった。此方金光大神あって、神は世に出たのである。神からも氏子からも両方からの恩人は、此方金光大神である。金光大神の言うことにそむかぬよう、よく守って信心せよ。まさかの折には、天地金乃神と言うにおよばぬ。金光大神、助けてくれと言えば、おかげを授けてやる。

初代金光教合楽教会長・大坪総一郎師ミニ御理解(昭和50年7月17日)

金光大神御自身の生活体験から、人間の本質をどのようにとらえておられたかを知らねばなりません。
そこから人の生命の支えとなるエネルギーが尽きることなく生み出され、教えともなり、真の信心の原型を作るに至ったのです。
其の一端を言うと、世俗の快楽に流れるを慎(つつし)み、同時に苦行的表行(わぎょう)が人間の助かりの上にはたいした価値はないものと悟(さと)り、心行による神ながらの道を生み出し、これを教え、自らもこれに徹しられた。
この御理解の一番大切なところは『金光大神の言ふ事に背かぬ』ということと共に、金光大神のあられ方を私共の生活の上に神習(かんなら)わして頂く事であります。

金光教亀有教会ミニ御理解

このみ教えは必ずしも金光大神だけの専売特許という訳ではない。私たち一人一人も「金光大神の言うことにそむかぬよう、よく守って信心」すれば、自ずと天地金乃神のおかげを受けられるようになり、神を世に出すことにもつながる。
反対に言えば、金光大神の言うことに背き、よく守らなければ、天地金乃神のおかげは受けられず、せっかく世に出られた神様を再び閉ざしてしまうことにもなりかねないのである。
お互い一人一人も神様から「あなたがあって」と言って頂けるよう、金光大神の言われることを日々、よく守り、素直に忠実に実践してまいりたい。

2018年7月25日

御理解第5節

これまで、神がものを言うて聞かせることはあるまい。どこへ参っても、片便(かたびん)で願い捨てであろうが。それでも、一心を立てればわが心に神がござるから、おかげになるのじゃ。生きた神を信心せよ。天も地も昔から死んだことなし。此方(このかた)が祈るところは、天地金乃神と一心なり。

初代金光教合楽教会長・大坪総一郎師ミニ御理解(昭和50年7月18日)

自己満足的な信心から、神も立ち行き氏子も立ち行き、喜び合い満足し合える世界にまで発展出来る道が、金光大神によって生き生きと開かれた。
『此方が祈る所は天地金乃神と一心なり』と仰せられる金光大神の御取次による、生きた天地の働きをそこに集中してメグリを断ち、おかげを授けて下さる働きとは、なったのであります。

金光教亀有教会ミニ御理解

願うということだけでなく、お互いの信心のあり方そのものも気付けば片便で終わらせてしまっているところはあるまいか。自分は満足しているが、周囲や神様には歯がゆい、残念な思いにさせているといったような・・・。そのことに気付かないままだとしたら、こんなに恐ろしいことはない。
自分が今、こうあるべきと思っていることは神様の機感に叶っているとは限らない。自分自身の見方考え方だけでは心もとないのが、われわれ人間の実相であることをまず肝に銘じたい。
この神様との関係は、どこまでも双方向性である。発信したら必ず受信する癖を身に付けていきたい。自分ではそういうつもりではなくても、いつの間にか一方通行に入り込んでいたということにならないようにしたい。何事もお伺いを立て、御取次を頂いていくことが、信心が独りよがりにならないためのバロメーター。

2018年7月26日

御理解第6節

目には見えぬが、神の中を分けて通りおるようなものじゃ。畑(はた)で肥(こえ)をかけておろうが、道を歩いておろうが、天地金乃神の広前は世界中であるぞ。

初代金光教合楽教会長・大坪総一郎師ミニ御理解(昭和50年7月19日)

『神の中を分けて通り居(お)るやうなものぢゃ』と、お道の信心もここまで実感として頂けたら、日々が生き生きとして有難い信心生活が出来る。それだけでなく、お徳を受けることでありましょう。
信心の確立とは、このような実感が得られる時をいうのであります。

金光教亀有教会ミニ御理解

お互い「目には見えぬが神の中を分けて通りおるような」実感を、どれほど持って日々を過ごさせて頂いているだろうか。食事をしている時も、トイレの中にいる時も、日々の生活のどの場面にあっても「神の中を分けて通りおるような」「天地金乃神の広前は世界中である」凜とした緊張感を持っていたい。日々の生活のどの場面を切り取っても真善美が漂っているようなおかげを頂いてまいりたい。

2018年7月27日

御理解第7節

天地金乃神は昔からある神ぞ。途中(とちゅう)からできた神でなし。天地ははやることなし。はやることなければ終わりもなし。天地日月の心になること肝要(かんよう)なり。信心はせんでもおかげはやってある。

初代金光教合楽教会長・大坪総一郎師ミニ御理解(昭和50年7月20日)

真(まこと)の道が見失われ、悪徳と凶暴とが人間社会を当然のことのようにまかり通る世の中です。
世界の難儀は、いよいよ深刻になってまいりました。
この悪徳と不信を根絶征服するものは、わが教祖の信心『和賀心(わがこころ)時代を創(つく)る』運動以外にありません。
神様も今の世を「寒天危地(カンテンキチ)」と教えられました。
神様の願いハこの世を「歓天喜地(かんてんきち)」となさんの御心であります。天地日月の心とはそのまま親神様の御心です。御心を心として知ること、行ずることこそ肝要であります。

金光教亀有教会ミニ御理解

一、「信心はせんでもやってある」おかげをおかげと受け止め、「信心をしなければ受けられないおかげ」を知り、
一、途中からできたものよりも、昔からあるもの、もとからあるものを大切にし、
一、流行りものよりも、はやることもなければ終わることもないものに着眼する。

天地日月の心、すなわち神様の御心を私の心としていくことのために、絶えずこのことを心にかけておきたい。

2018年7月28日

御理解第8節

子供の中にくずの子があれば、それがかわいいのが親の心じゃ。不信心者(ぶしんじんもの)ほど神はかわいい。信心しておかげを受けてくれよ。」

初代金光教合楽教会長・大坪総一郎師ミニ御理解(昭和50年7月21日)

信心のない氏子、信心による真(まこと)の助かりを知らぬ氏子の上にかけられる親神様の切なる御思いであります。
信心による真の助かり、それは勿体(もったい)なしの生活に入り、それに徹することでありましょう。何故(なぜ)なら信心とはギリギリの自分を見いだし、それに目ざめることだからです。
わかればわかるほど「屑の子、吾」の思いは募(つの)るばかりです。

金光教亀有教会ミニ御理解

自分ではくずの子を自覚しているようでも、実際は自覚できていない人が多い。自分も含めて・・・。
くずの子を自覚していくことも大切ですが、くずの子として、そこから先どうあろうとするかを求めていくことがもっと大切です。真にくずの子を自覚しているのであれば、自ずとそういう心が芽生えてこなければなりません。芽生えてこないで、くずの子の現状に浸ったままだとしたら「くずの子の自覚のふり」をしているのです。このことこそを自覚しよう。
くずの子、無信心者ほどかわいいと言ってくださる神様の親心に、いつまでも甘えていては、それはもはやくずの子ではなく「親もどうしようもない子」です。

2018年7月29日

御理解第9節

天地金乃神は宗旨嫌(しゅうしぎら)いをせぬ。信心は心を狭(せも)う持ってはならぬ。心を広う持っておれ。世界を広う考えておれ。世界はわが心にあるぞ。

初代金光教合楽教会長・大坪総一郎師ミニ御理解(昭和50年7月23日)

心が豊かである時ハ何を聞いても見ても心にさわりません。
信心による有難しの心は、広い豊かな美(うるわ)しの心です。
小さいことに心を汚し、心配になり、心が穏(おだ)やかでない時は、この有難しの心が欠如のしるしです。気のぬけたサイダーのようなものです。
『宗旨嫌(ぎら)いをせぬ』金光教なのに、内の信者をとったのとられたのと内々(うちうち)で騒(さわ)ぐなどは、お道の信奉者として最低です。ナンセンスです。

金光教亀有教会ミニ御理解

竹の筒にはボウフラしか住まぬが大海には鯨が住もうが(金光四神様お言葉)
竹の筒のような心にはボウフラのようなものしか湧いてきません。
大海のような心には鯨のみならず、様々な生命を育み、浄化していくほどの豊かさが伴ってきます。

2018年7月30日

御理解第10節

神が社(やしろ)へ入っては、この世が闇(やみ)になる。

初代金光教合楽教会長・大坪総一郎師ミニ御理解(昭和50年7月24日)

広大無辺の御神徳ハ天地にみなぎりわたって居(お)ります。
お社(やしろ)の中も外もありません。お社の中にお祀(まつ)りしたから外には出られぬという神さまではありません。又、押し込めたことにもなりません。
けれども人間は、それぞれ感情又は感覚を持って居(お)ります。御扉(おとびら)の開く音とともに自分の心が開かれる思いがいたします。
御神燈(ごしんとう)を明々(あかあか)と点ずれバ拝む者の心の雲が払われる思いがします。
要は自らの心を開き、自らの心を明るくすることです。

金光教亀有教会ミニ御理解

「天地金乃神のご神体は天地である。宮社に静まり納まっておられるのではない。真一心の心に神がおられて、おかげになる」(金光教教典672頁・理解Ⅱ福嶋儀兵衛の伝え10節)

天地金乃神様のご神体は天地そのものでありますから、初代親先生の申されますとおり、お社の中も外もありません。私たち氏子の方から勝手にお社をこしらえて、神様を閉じ込めてしまわないようにしたいものです。

2018年7月31日

御理解第11節

神は天地の守(も)りじゃから、離(はな)れることはできぬぞ。

初代金光教合楽教会長・大坪総一郎師ミニ御理解(昭和50年7月25日)

御神性を明らかにされたものです。御神性とハ真(まこと)・誠(まこと)・信(まこと)であります。
この「まこと」をもって天地を御守護下されてあります。人間氏子も勿論(もちろん)かぎりない御慈愛の中にあります。

  三代金光様おことば
『氏子が神さままかせなら、神さまが氏子まかせになると仰せられますから』

氏子が真(まこと)なら神さまも真で受けて下さる道理です。真とまことの交流が信心です。徳を受けてゆく道でもあります。
真の信心がないと神の御守護をうけて居ることすらもわかりません。

金光教亀有教会ミニ御理解

「神は天地の守りじゃから、離れることはできぬぞ」ということは裏を返せば、いつでもどこでも神様のふところ、ご守護の中のあるということをハッキリと保証してくださっているみ教えである。しかしせっかく神様が保証してくださっても、氏子がそれを信じられなければ悲しいことである。
何としても、このみ教えを信じられる、実感できるおかげを頂きたい。それはそのまま真の安心にもつながってくる。

  三代金光様おことば
  『真の信心とは、安心の大みかげを受けることであります。』