2019年7月21日~31日

2019年7月21日

御理解第32節

女が菜園に出て菜を抜く時に、地を拝んで抜くというような心になれば、おかげがある。また、それを煮て食べる時、神様いただきますというような心あらば、あたることなし。

初代金光教合楽教会長・大坪総一郎師ミニ御理解(昭和51年7月15日)

〇商売をする人が、お客様を拝む。其のお客を差し向けて下さる神さまに礼を言う。
〇お百姓の方たちが野菜の種子(たね)を播(ま)く。きれいに芽が出たと其の芽が出たことを称える。又、其の元つ働きの天地の恵みに感謝する。
〇神様あっての私としての感恩の生活が出来るようになる。そこには氏子あっての神としての神の感謝が伝わってくる。神と氏子との拝み合い、即ち「あいよかけよ」の道が開かれる。兎に角、お道の信心は拝み拝まれることに尽きるのです。

金光教亀有教会ミニ御理解

この御理解に続きを付けるとしたら、「最後に食べ終わったら神様ありがとうございましたと礼を言う心持ちになれよ」という御理解第31節の内容が加わってくるのではないでしょうか。改めて昨日のミニ御理解の末尾に補足・調整を加えますと次のようになります。

「拝む心」「頂く心」「御礼の心」の三要素が神信心の基本サイクルであり生命線です。

2019年7月22日

御理解第33節

お供え物とおかげは、つきものではないぞ。

初代金光教合楽教会長・大坪総一郎師ミニ御理解(昭和51年7月16日)

   鮮やかに捧げる

捧げる物とか金に、おかげが伴うのではない。
その鮮やかな捧げ尽くす心におかげ(徳)がつくのである。

金光教亀有教会ミニ御理解

神様はお供え物そのものではなく、お供えをする氏子、さらにはそれを取り次ぐ者の心根を見ておられる。とかくお金や物には虫が尽きやすい。お供え物によって、かえって不浄をこしらえるといったようなことにならないようにしたい。どんなに高価なものであっても、ささやかなものであっても、この神様は氏子の真、真心だけを受け止められる。

2019年7月23日

御理解第34節

ここへ参っても、神の言うとおりにする者は少ない。みな、帰ってから自分のよいようにするので、おかげはなし。神の言うことは道に落としてしまい、わが勝手にして、神を恨むような者がある。神の一言は千両の金にもかえられぬ。ありがたく受けて帰れば、みやげは舟にも車にも積めぬほどの神徳がある。心の内を改めることが第一なり。神に一心とは迷いのないことぞ。

初代金光教合楽教会長・大坪総一郎師ミニ御理解(昭和51年7月17日)

もう五、六年にもなりましょうか。或る日突然、「今日よりはサイダーを飲むな、コーラかジュースにせよ」とお知らせを頂いた。それ以来、サイダーを飲んだことはない。
何故だかわからない。伺うたこともない。ただ神さまがそう仰せられるからである。まして天地の道理に基づいて、懇々と又、切々と然(しか)も頼むように説き聞かせて下さる御教えを守らない事は、勿体ない限りである。
改まった心で一心に迷わず「拝聴」「実行」することこそが、お徳を受けることになるのです。

金光教亀有教会ミニ御理解

得心がいかなければ受けられないという人には、やはり信心は難しい。自分を外さなければ、「みやげは舟にも車にも積めぬほどの」と言われる神徳を十分に受けることはできない。
理屈や主観は神様にお供えしたつもりで、まずは食べてみよ、頂いてみよ。神様の威徳は、その先に無限に広がっている。

 何事も 素直心ひとつにて 雲の上まで のぼる道あり(初代金光教合楽教会長・大坪総一郎師教歌)

2019年7月24日

御理解第35節

信心は日々の改まりが第一じゃ。毎日、元日の心で暮らし、日が暮れたら大晦日と思い、夜が明けたら元日と思うて、日々うれしゅう暮らせば、家内に不和はない。

初代金光教合楽教会長・大坪総一郎師ミニ御理解(昭和51年7月18日)

朝日を拝む者ハ多いけれども夕日を拝む者が少ない。大晦日の心を大切にせねバ元日のような朝を迎えることは出来ぬ。

  朝のすがすがしさ
  昼の忙しさ
  夜の有難さ

今日なさねバならぬことは明日に持ち越さぬ努力こそ大晦日の心。
家内に不和のない元日の心を頂くためにハ人を責める心を捨てねばならぬ。
周囲の一切を拝める四方拝(ひほうはい)の心である。

金光教亀有教会ミニ御理解

必ずしも元日や大晦日だけではない。例えば今日が娘の結婚式だとしたら、少々腹の立つことがあったとしても「今日は娘の一世一代の晴れ舞台の日だから今日だけは治めておこう」と思うであろう。明日が入社式だとしたら準備を怠らず、晩酌もそこそこに明日に備えるようにするだろう。そういう心がけが、元日の心であり大晦日の心である。

この心がけが日々貫かれていくならば、確かに我情我欲も取れていくことであろう、健全な心と体にもなっていくことであろう、自ずと家内に不和もなくなっていくことであろう。信心生活はかくありたい。

2019年7月25日

御理解第36節

日本国中のあらゆる神を、みな信心すると言うが、それはあまりの信心じゃ。人に物を頼むにも、一人に任すと、その人が力を入れて世話をしてくれるが、多くの人に頼めば、相談に暮れて物事はかどらず。大工を雇うても、棟梁がなければならぬ。草木でも芯というたら一つじゃ。神信心もこの一心を出すと、すぐおかげが受けられる。

初代金光教合楽教会長・大坪総一郎師ミニ御理解(昭和51年7月19日)

病気直しや災難除けの神じゃなし、心なおしの神じゃ。
医者にも外科、内科、小児科といろいろある。
それぞれ専門医に行くのが早道であるように、お道の信心は心直し専門の神さまであることがわかると迷いは消える。
心直しを頼む気になると「運命改善」が出来る。
心開いて一心に頼め。

金光教亀有教会ミニ御理解

あなたには「これこそ私の信心の命です」と言えるものはありますか。
御礼、実意、人を責めない、朝起き、御祈念、トイレ信行、下足信行・・・、何でもいいのです。一度にあれもこれもでなくていいのです。何か一つ「これが私の信心の命です」と言えるものに磨きをかけていくことです。それができてまいりますと、そのことが芯となって信心が広がってまいります。おかげも伴ってまいります。
最終的には自分だけでなく人からも認めて頂ける「あなたの信心の代名詞」を創り上げていくことです。

2019年7月26日

御理解第37節

生きておる間は修行中じゃ。ちょうど、学者が年をとっても眼鏡をかけて本を読むようなものであろうぞ。

初代金光教合楽教会長・大坪総一郎師ミニ御理解(昭和51年7月20日)

 花の生命(いのち)は短くて
    苦しきことのみ多かりき

信心がないなら、この世は苦の世、苦の世界。信心しても御利益を追うのみの信心なら、やはり修行がつらい。
信心を求めての苦労なら、力を受け徳が身について行くのがわかるようになるから、楽しい苦労である。これが真実(ほんとう)の修行になる。
楽をしようには楽ハなく、楽ハせんぞの信心に極楽がある。
清く生きようとするから難しい。此の身このまま助けて下さる神様である。すなわち、即身成仏(そくしんじょうぶつ)を願う信心である。

金光教亀有教会ミニ御理解

修行というと、どうしても辛い、苦しい、大変そうだというイメージがあるように思う。修行という言葉に対するイメージをアップしていきたい。
金光大神が説かれた修行とは何か特別なことをしたりとか、体の上に課していくようなものではなく、心の上での修行を意味している。それも精神修養的な肩肘を張ったようなものではなく、それぞれが受け持つ家業を実意に勤めていくことであったり、日常生活の中で起こり来る様々なことを不足を言わずに頂いていくというように、その気になればいつでも、どこでも、誰でもが取り組めるものとして説かれている。
修行という概念を生身の人間が生身のまま取り組んでいけるもの、しかも楽しく、ありがたく、せずにはおられないものという概念にしていこう。

2019年7月27日

御理解第38節

垢離(こり)を取るというが、体の垢離を取るよりは、心の凝りを取って信心せよ。

初代金光教合楽教会長・大坪総一郎師ミニ御理解(昭和51年7月21日)

 有難い心を態度で示せ。
太くなれ、大きくなれ、死んだ気になれ。

三井(みい)教会初代教会長荒巻弓次郎先生の御信心の内容と言われる、

 垢離をつむな 垢離をつますな 身をつつしめ

こりをとってと言う前に、こりを積まず積ませずの修行こそ大切にすべきである。それには、有難く太く大きくなるより他になし。

金光教亀有教会ミニ御理解

「垢離を取る」・・・神仏に祈願するため、冷水を浴び身体のけがれを去って清浄にする行をすること。

わざわざ自分から体に冷水をかけようとしなくても、日々の生活の中で冷や水をかけられるような出来事が起こった時、心に水をかぶったつもりで合掌して頂いていけば、自ずと垢離(凝り)を取ったことになっていきます。

2019年7月28日

御理解第39節

此方の行は水や火の行ではない。家業の業(ぎょう)ぞ。

初代金光教合楽教会長・大坪総一郎師ミニ御理解(昭和51年7月22日)

生活そのものが行ではなく、その内容如何(いかん)である。
生業(なりわい)が生活の為でなく、生かされてある自覚が神恩報謝の真(まこと)となってはじめて家業の行と言えるのです。只、忠実に働くというだけではありません。
今朝、戎浦(えびすうら)さんから電話がかかって来ました。或る病院に勤めておられます。院長先生が大変ひどい方らしいのです。そのために従業員の人達が長く続かぬような始末です。その事で毎日、不愉快な日日でした。
二、三日前より思いを変え、院長の言われることをそのまま親先生の言われることだと思い頂く心になりましたら、毎日が楽しい有難いものになりましたというのです。
この頂き方こそ正しく家業の行というのではないでしょうか。

金光教亀有教会ミニ御理解

家業を勤める目的が自分や自分たち一家のためだけであったら、ただの家業。家業を通して自らの心を円く円くしていき、世のため人のため神願成就を願ってありがたく勤めれば、家業の内容が信心の行となり、それが神様のみ心にかなうことにもなってくる。
家業による行は普遍性、永続性に富み、かつ火や水の行を凌ぐほどのものである。

2019年7月29日

御理解第40節

重い物を負うておるか担いでおれば苦しいが、そうでないから信心は楽じゃ。家業を勤め勤めするがよい。

初代金光教合楽教会長・大坪総一郎師ミニ御理解(昭和51年7月23日)

毎朝、しばらくは御礼、御願いの電話がひっきりなしに続きます。電話ではご無礼とか失礼ということはない証拠に、みんなおかげを受けて居ります。
私も楽なら信者も楽です。しかし、信心を頂こうとすれバそんな訳にはまいりません。
御教えをうけることが楽しみ、修行が有難いとわかり、信心が好きになれば信心は楽なものです。

金光教亀有教会ミニ御理解

私は教会長を車椅子から移動させる際、一日に何回も自分の背中にかかえる生活をかれこれ十八年近く続けておりますが、心に気が入っている時、填まっている時はそれが苦にならず、軽々とかかえられます。しかし面倒くさく思ったり、気もそぞろな時はズシッと重たく、しんどく感じます。同じ行為でも、こちらの構え次第で全然違ってくるのです。
日々、起きてくる成り行きにしても然りです。受けるぞ、頂くぞという腹が据われば自分でも驚くほどに軽々とかかえられるものです。

神様はあなたにかかえられないものは差し向けられません。

2019年7月30日

御理解第41節

信心は話を聞くだけが能でない。わが心からも練り出すがよい。

初代金光教合楽教会長・大坪総一郎師ミニ御理解(昭和51年7月24日)

話を聞いても行いの上に行じ現わさねば、おかげにならぬし、わからぬことすらもわからん。
共励会等の研修の場で体験の発表も出来ず、質問も出来ぬ人がある。教えを行ずるなら、体験が生まれぬはずはない。
練り出すということは、理屈を練り出すのではなく、おかげを練り出すのである。先ずは参拝の時間を練り出し、お初穂を練り出す工夫が第一。
話を聞くことにより心が開け、行ずることにより心の眼が開ける。

金光教亀有教会ミニ御理解

教えを聴いた知っただけでは、そこ止まり。単なる知識でしかない。せっかくの教えも使いこなしていかなければ役には立たない。
今朝、テレビを見ていたら浅草の老舗金物屋さんの若旦那が出ていた。その店には約8,000点もの商品が置いてあるらしいが、実は店の奥に商品の「実験室」という部屋があって、どの商品もそこで一度は手にとって実際に使ってみて、これは素晴らしいものと確認できたものだけを店頭に並べるようにしているという。
合楽の初代親先生には約8,800ほどの教話が残されているが、数ある教祖のみ教えを実験してみて、これは確かに素晴らしいと確認されたものを教話や御取次に乗せて提供してくださった。
私たちも頂いたみ教えや教話、御取次一つ一つを、これは実際どうだろうかと日々の生活の中で「実験」「確認」してみることが自ずと「わが心から練り出す」こととなり、手応えや確信を生みなしていくことへとつながっていく。

2019年7月31日

御理解第42節

これほど信心するのに、どうしてこういうことができるであろうかと思えば、信心はもうとまっておる。これはまだ信心が足らぬのじゃと思い、一心に信心してゆけば、そこからおかげが受けられる。

初代金光教合楽教会長・大坪総一郎師ミニ御理解(昭和51年7月25日)

この頃から毎朝、どなたか私の部屋に大輪の花をつけた朝顔を持って来て下さっています。目がさめるようです。
最近、信心のマンネリ化が言われています。信心は、日日に新(さら)な、毎日朝露をふくんで咲く朝顔の花にみるようなフレッシュな信心の喜びを感じられる精進工夫が要ります。
おかげだけに終始しますと「どうして」という心が起こります。
信心が目当てでありますと「こうして」信心を育てて下さるという生き生きとした心が湧いてまいります。

金光教亀有教会ミニ御理解

信心はどうしてこんな目に遭わなければならないのかという、そこからが本番です。そういう時こそ神様はいよいよあなたを信じたい、育てたいと求めておられる時なのです。この氏子なればこそと思いを寄せている時なのです。どうしようもない思い、やりきれない思いをぶつけてもいい、とにかく神様と真剣に向かい合うことです。いよいよ本番を前にして舞台に立ってぶつかり合おうともせず、神様を信じ切れずにもいることこそが「どうして」です。