金光教の助かり
私共が真実、助かっていくということ、これは勿論おかげを頂かねばなりませんれけども、そのおかげを頂くということの内容が、天地書附に『生神金光大神 天地金乃神 一心ニ願 おかげハ 和賀心ニあり』と教えられるように、その和賀心にあるところの、おかげをもって私は金光教の信心のおかげだと思うのです。
いろいろな信心がございます。同じお道の中にありましても、やはり同じ金光大神の道を頂きながらも、ひとつの流儀とでも申しましょうか、例えば久留米(教会)流があったり、甘木(教会)流があったり、又は合楽(教会)流があったりいたします。それはあってもいいと思いますし、又、なからなければなりません(なければなりません)。
金光大神の教えられる道は、大きいのですから「こうでなければならん」とか「ああでなければならん」といったようなことはないと私は思う。
先日、ある教会の先生のお話を頂いたんですが、その中に或る教会の話が出てました。たくさんの人がやっぱり助かっておる。それはどういうような事で助かっておるかと言うと、ほとんど病人さんが多い。そこの親先生という方が、病人が参ってきますと「どこが悪いか」と聞かれてそこの悪いところを指圧のようなことをなされる。まあおさすりと言うてもよいかもしれません。
ところがそれで不思議に人が助かる。ですから大祭ともなりますと、たくさんの人が集まるということです。
これは又別ですが、そこでは、霊さま専門。「何代前の霊が助かっていない。霊さまのお祭りをすると助かる」言われた通りにすれば、商売も繁昌してくるし、病気も治ってくる。かと言うと祈念力で人を助けなさる先生もおられる。
いわゆる拝む、祈念力によって助かる。まあ様々な助かり方がある訳です。だから金光教の教祖の教えられた信心の中には、そういうものはないという事ではない、やはりどういうようなものでもある。まあ云うならお稲荷さん的な事で助かっておるというのもある。只お伺い所といったような所もある。
和賀心時代を創る
けれども折角助からせて頂くならば、いわゆる和賀心をもって助かる。和賀心によって助かる、ハッキリと教祖がおっしゃっておられます。『今月今日只今を、和賀心にならして頂く事を願え、その和賀心におかげがあるのだ』と。
ところが、なかなか和賀心にはなれない。難しい。けれどもその和の心、賀の心を目ざさせて頂いてお互いが信心の稽古をさせて頂く、そこにそういう姿勢をさせて頂くところから、もうすでに助かると言うか、こうなってしまわなければ助からんという事ではない。
ここに『和賀心時代を創る』と講題をかかげてありますが、これは今年の合楽の信心の焦点とも言うべきもの、いや今年だけではない、合楽の在る限りこのことは、願われ続けられることだろうと思います。又合楽だけではない、金光教の全体の人達が、焦点にしなければならないところだと、そういう様にも私は、確信させて頂く。
それにはやはり、まず私共が、和賀心というものがどういうような働きをするものかという体験、和賀心になるということが、このようなおかげになるということを示さなければ、いかに「和賀心時代を創ろう」と言うても、誰もついてはきません。
まず私の心の中に、まず私の一家から、そして私の周辺に・・・。
そういう和賀心時代を創るという、ささやかな運動が興されるとするならば、きっと和賀心時代は顕現されると確信します。それは五百年後、千年後かも知れんが、きっと来ます。
そこに至らなければ、人類の真の平和、幸福にはつながらないということです。
和賀心には、それほどしの力があり、真理があります。
物質文明の悲劇
この複雑極まりない現代の世相を見る時それを痛感せずにおれませんね。毎日あの新聞を見てどう思いますか、世界のどこかでは毎日戦争があってるし、交通戦争の犠牲で毎日何人もの人が死んでるし、それに公害、暴力、非行等々・・・、あげて申しますなら限りがないですね。
誰もが世界の平和、人類の幸福を望んでいる訳ですが、どうしてこのようなことになってきたのでしょうか。
「政治が悪いのだ」といって革命を起こし血を流し、多くの人命までも奪ってきましたけれど、結局、平和にはなれなかった。又物質(もの)に満たされれば、幸福になれると思った人間は、いろんな物質(もの)を発明もしてきた、発見もしてきた。
けれども皆さんどうでしょうか、幸福になれたでしょうか。
むしろ私達が得たものといったら、自分さえよかれば(よければ)よいという心、人を恨む心、憎む心、他人を信頼できない心です。今の言葉で申しますなら、人間不信、断絶、生存競争、公害、民族的偏見、そして戦争ということです。いわゆるこれを私は、物質文明の産みだした“奇形児”だと申しております。
なぜこのようなことになって来たのでしょうか。
言うまでもなく「心」を忘れていたからであります。心を大事にしてこなかったからであります。
私達は「パンのみでは生きられぬ」ということは、知ってはおります。けれども、ただ知っておるだけでそれを大事にしようとはしてこなかった。その人類の悲劇がです、今日の世の実相という訳です。
より多くのパンを得るために、人間は努力してまいりました。より美味しいパンを手に入れるために研究もしてまいりました。
そして多くのパンと美味しいパンを手に入れることが出来ました。ところがどうでしょう、その結果、先ほども申しますような幾多のぬきさしならぬ問題もいっしょにつくり出してしまった訳です。
このままいったらそれこそ人類は、人類の手で人類を破滅の道へ追いやってしまいます。今からでもおそくはない、一人でも二人でも人間が破滅への道へ暴走しておるのに歯止めする人がいります。それは、これからの世代を背負って立つ若いみなさん方の使命でもあろうかと思います。
和賀心の研究
本気でそのことに気付き、目を覚まして頂きたいものと思います。パンを得るためにあれほどしの、人材、財、そして時間を費やして研究してきたのですから、ここで「いかにしたら人間の心が美しくなれるか、豊かな心になれるか、いうならば、いかにしたら和賀心になれるか」を国家総がかりで、努力すべきだと思いますね。
国家がですね、いかにしたら産業が発達、繁栄するかを大変な財と時間と人材をかけて努力研究するようにですね、いかにしたら人間の心がより豊かに、より美しくなるかを努力研究するような時代がこなければ、世界真の平和はあり得ないし、人類の幸福にはつながってこないと思いますね。
私はね、決して物質(もの)に恵まれることをいかんというのじゃないですよ。それも必要です。それは人間がより豊かな幸福になれる条件ですからね。私が言うのは、多くのパン、美味しいパンも必要だけれども、それと同時に心の発達もして行かねばならないということです。
公害問題なんかもそうです。いくら「美しい空を、きれいな水を」といってそれをとりもどしてもですね、私達の心の中により美しい、きれいな心を育てる努力をしない限り解決する問題ではありませんね。
自分さえよかれば(よければ)他人はどうなってもいい、自分の家族の者さえよければという心、人を恨む心、憎む心、ねたむ心・・・等これらの心をなくすことに努力しない限り、即ち「和賀心」を目指しての生き方にならない限り人類の平和、幸福はあり得ないと思いますね。
その事を人類総がかりで又宗教家自身が宗旨、宗派を超えた努力というものがなされなければならぬ時だと思います。
真の信心の開眼
それにはまず、私の心の中に、そして今日おいでの皆さんの中に「和賀心」を頂かねばなりません。そしてこの和賀心の素晴らしさがわかったら、その運動員としてあなた方の周辺に和賀心運動を推し進めていってもらいたいものです。
それも説明や理屈だけではなく、私はこうおかげを頂いているという事実をひっさげてのものでなければなりません。
金光教で言う和賀心は、精神修養的な心ではありません。天地書附にもハッキリ示されてあるように、『おかげは和賀心にあり』であります。和賀心になりさえすれば頼まんでも願わんでも黙っておかげはついてくるものです。おかげの伴わない宗教は死んだ宗教といってよい。本気で取り組めば、取り組んだだけのおかげです。
私も永い間お道の信心をしてまいりました。ずいぶん教えもいただいてまいりました。けれども教えに本気で取り組んだという事がなかった。
私はだいたいが商売人ですから、商売人としていろいろおかげをいただいてまいりました。たとえば商売をするなら、売場、買場を大切にする事を教えられた。又、人が十銭で売るものは八銭で売るというような事とも教えられる。それのほうが数がたくさん売れるから、得だと教えておられるのにもかかわらず、これは私の信心ですけれども十銭のものは十一銭で売る事がおかげのように思うてやって来た。それでもやっぱり何十年間おかげをいただいてきたという事実がある。本当にたくさんの御教えをいただきながら教えを行ずるという事をしなかった。一生懸命拝むという事はした。又御用を頂くというような事もした。けれども本気でその教えに取り組んで、その教えを血肉にしていこうとする信心を一つもしなかった。そして私の信心の岐路というか境になったのは終戦であった。
裸同様で引揚げて帰ってまいりまして、そこから、今までの信心ではいけなかったと初めて目が開けだした。それから続けざまに、兄弟3人の葬式をしなければならないといったような事が起きてまいりますに従って、私の信心の眼(まなこ)が開いてきたという事になったように思えます。そして本気で教えを頂こう、また、そしてそれを行(ぎょう)のうえに現わさせて頂こう、ということになってきたら、私が助かるということではなくて、私の周りの人までが助かるようになってきた。
みなさんの場合は、どうでしょうか。本気で信心するということは、本気で教えに取り組むということだと私は思うのです。しかも最近、私はあの沢山の『御教え』がありますけれども、その教えのすべてが、私共が和賀心にならせて頂くためのそれだ、教えだという風に頂いてよいと、思うようになりました。そしてその『和賀心』の素晴らしさと申しますか、これなら世界の市場のどこに出しても恥じることのないものだと確信する今日であります。
ここに至りますまでの過程を今日は聞いて頂こうと思います。
一切を黙って受け抜く
終戦になりまして北京から引揚げてまいりましてから、福岡の方で商売をさせて頂いた。もうそれこそ、置いたものを取るようなおかげを頂きました。けれどもそれは束の間であった。今度はそれと反対に右と願えば左、左と願えば右ということになって来ました。
先覚の先生方がなさったというさまざまの修行もやってみた。しかし、難儀は私の身の上にばかりおきてきた。けれどもその頃は少しは信心の有り難さが分かってきておった。
そこで親先生にお取次を頂いた。「親先生どうぞこれからは、右になりますように、左になりますようにというお願いはもうやめました。私のような者でも、天地の親神様の願いというものが、かけられておるに違いないと思いますので、神様が私にかけられておられる願いが成就するためならば、右になろうが左になろうが一切、不平は申しません。不足に思いません。私の上にどのようなことが起きてまいりましても受けさせて頂きます。ですからこれからは、神様の願いが成就されますようにお願いして下さい。」というお届けをさせて頂いた。
それから私の信心が一変してきたように思います。それからいろんなことが起こってまいりました。椛目(合楽教会の前身)で私の話を聞きたいという人がだんだん集まってくるようになり、しかも話を聞いて下さる方々がどんどん助かるようになってきました。それは、もうたいへんな時代でした。
例えて申しますと、初めて参って来て「お金を貸してくれ」と言うたり「お金を下さい」と言う人があったり・・・・・・。
私はそんな時お賽銭箱をひっくり返してあげました。又貸しました。けれども返ってきたためしは一ぺんもございませんでした。それは、金銭だけのことではありません。あの時分には、もう、棒にも箸にもかからんといったような病人やら、妙な精神異常者のごたるとやらが(のような人が)十何人といました。「おねがいします」というて来たのは、どんな人でも受けさせて頂いた。又、私の上に起こってまいりましたことは、どんなことでも受けさせて頂いた。
今から考えてみますと、はまっておるということは素晴らしい事です。あれが、しるしい(しんどい)、しるしい、どうしてこんな人を面倒見らねばならんだろうか、というような気持ちだったらとてもできなかったんですけれども、もうとに角、神様が私に下さるものならば、良きにつけ悪しきにつけ、もうそれこそ夏も御小袖で頂こうという気になっとりますから、本当に、それは見事に受けていったことになります。それも私は、どういうような事になるのか分からんなりに、そうやって受けていった。
四年半の修行
そういう事が四年半続きました。丁度四年半目に、神様からお知らせを頂きました。神様から、ほうれん草を頂きました。あのポパイがいただくやつです。あれを食べると、力ができるというやつです。確かにそうです。そういう意味の事も含まれておったんだと思います。
そのほうれん草を畑からひきぬいてきたばっかりのを、まあだ泥も少しはついとれば、ひげもついとる。赤い葉もまだついとるというような情景を頂いた。
そして神様が私に御理解下さるのにね、今迄ここ四年半は、このほうれん草のひげもとらず、泥がついてじゃきじゃきするようなのでも、又は赤い葉でも、みんな頂いてきたようなものであった。
しかし、「それはあんまりの事であるから、これからは、ひげもむしれ、泥も落とせ、しかも赤い葉はとってしまえ、そして滋養になるところだけを頂け」というようなおしらせを頂いた。それが四年半目でした。
ところがもうそれっきりでした。当時の椛目(合楽教会の前身)に、お金を借りに来る人もいなければ、もらいに来る人もなくなりました。勿論、病人さんを預かってくれといったようなものも全然ありません。ただ入って来るのは本当に信心修行がしたいと言うて来る人ばっかりでございました。今、考えてみますとその四年半という時代はお試しの時代であったなと思うのです。
その頃から当時の椛目では、成り行きを尊ばせて頂くという事を言い出した。私の上に起きてくる成行きそのものを大事にせよと言うておりました。
しかしそれがまだ真の信心とは私自身も気がついてなかった。段々おかげを頂いてまいりました今日、それが神の気感にかなった信心であったのかと気づかせて頂いております。
まあ、様々な問題もたくさんありましたけれども、その問題のすべてがおかげでございました。
真の信心とは?
そしてね、これは最近わからせて頂いたことなんです。私共は神様を拝むと言うて、いわゆる棚の上やら八足の上にお祀りしてある神様だけは、畏み畏んで頂きもすりゃ拝みもしますけれども、神様の働きそのものを大事にしていないとするならば、それはもう神様を半分おろそかにしているということ。
いかに神様を有難そうに拝んでも、神様の働きそのものを、粗末にしたならば、もう神様をお粗末にしておるということになるのじゃないでしょうか。
さきほどから申しますように、これは大坪総一郎だけではない、人間氏子の一人一人の上に神の願いというものがかけられてあるはずなのです。それを気付くか、気付かないかということが信心。気付かせて頂くところから、その神の願いに応えようという信心が生まれてくる。又いよいよ神の心の奥が分かりたいという求道心も又、生まれてくる。
私の上に起きてくる一切の事柄を有難く受けさせて頂くという姿勢。だから私の前には問題がない。「問題の性質をよく見て」といったことを言われますけれども、私にはね、もう見るも見ないもないのである。
その問題を通して、問題のおかげで私の信心を育てて下さる。いうなら信心の糧(かて)なのだから、ひとつも問題じゃない。
そこに至ります時に問題のない社会、問題のない生活ができるようになるのです。
そこでです。お互い一人一人の上にも、おきてくる様々な問題そのひとつひとつが神様があなたに願われる、修行であるという頂き方。それが成り行きを大事にするという事でございます。
最近では、そのことがいよいよ確かにそうだな。「真の信心、真の信心」と云うけれども、真の信心とは、神様をいよいよ尊ばせて頂くという事、大事にさせて頂くという事、それは只、お祀りをしておる神様だけを大事にするのでなくて、神様の御働きそのものを、大事にするという事が真の信心だという風にこれは、私は確信をもってそれを言えれるように最近は感ずるのです。
天地日月の心
教祖様は『天地日月の心になる事肝要なり』とおっしゃるのですから、やっぱり、天地日月の心にならして頂く精進を本気でしなければなりません。
これはまあ私なりの解釈ですけれども、天の心というのは、もう限りなく美しい心、限りなく与えて与えてやまない心、これが天の心だと私は思う。
地の心というのは、黙って一切を受けるということ。いわゆる、黙すること大地のごとくであります。大地は、いかなる汚ないものをもって行っても「こんな臭いものはいやだ、こんな汚ないものはだめだ」とは申しません。言わないばかりかそれを自分の滋養としていきます。そのような心、これが地の心であります。
しかも日月の心。これは言うならこれほど実意丁寧なものはない。お天道様が「今日はちょっときついから休もうか」なんて言われたら大変ですよね。1年365日、それこそ休むことなく一分一秒のまちがいもなく運行下されております。
実意丁寧ということは、日月の如く。言うならば、正確無比この上もないもの、これが日月の心であります。
『天地日月の心になること肝要なり』と教えられているのですから、やはり“肝要”と受けさせて頂かねばなりません。
そしてその成り行きを大切にするという内容、中身が天地日月の心とも分からず、只、取り組んできたことが、そのまま、「はゝあ、これが天地日月の心であったのか」と今、分からせて頂いております。
御性欲(おんせいよく)
そして最近、又ここで新たな言葉をもって言っておることは、いうなら「御事柄(おんことがら)」という事であります。すべての事の中に「御(おん)」の字を付けようというのです。損になる問題であっても、それを御事柄として頂く、神様が私に下さるものとして頂く、という事。これは素晴らしい事になってきております。
初めの間は、訳はわからんなりに、ただ私の上にかけられた神様の願いが成就していくことのためならば、私の上に起きてくる一切の事柄を修行として受けて行きます。というようにただ、修行というつもりで受けておったことが、今になってみるとこれは大変なことであった、修行どころか有難う受けねば、馬鹿らしいというようなことになって来ております。
例えば、性欲なども性欲としてそれを理解しょうとすれば、なんとなく後ろめたいというか穢(けが)らわしいものになるのですけれども、これを「御性欲(おんせいよく)」と頂く時、その穢れは祓われてまいります。
初めの間は訳は分からんなりに、ただ、私の上に起きてくる一切の事柄を修行として受けますと、私の上にかけられた願いが成就していく事の為ならば、それを黙って受けますという、只、修行というつもりで受けておった事があとで振り返ってみて、ははあ、あれが天地日月の心になってきたのだな、肝要だとおっしゃるところを、私はまあ曲がりなりにも頂いてきたという事になるのです。
そして、その事がです。もう神様の御働きとして分からせて頂いたならば、もう事柄などではすまされない、「御(おん)」の字をつけなければおられないというところ迄、高められてきたように思うのです。
甘木の初代先生は「御物(おんもの)」とおっしゃったそうですね。それこそ枯葉、枯枝、一枚、一本でもおろそかになさらなかった。「それとても神様の御物ばい」と教えられた。
そのように、それはいらないと思うような事柄であっても、私の上におこってくることならば、私に向けられたものと気がついたなら、それをおし頂いていくという事が、私は真の信心だという風に思うのでございます。
和賀心時代は神様の願い
そしてなお最近、「信心はここに極まった」と申しております。それを私は『和賀心時代を創る』と申しております。これは私が創るというのではない。これは天地金乃神様の願いである。神様が創ろうとなさっておる働きであります。
どのような問題があっても、どのような難義がありましても、その中から、これをいかにして和賀心で受けていくか、和賀心にならせて頂くかということに焦点を置いたらよい。分からんなら、分かるまで本気で修行にも取りくんでみたらよい、と申しております。
昨日の朝の御理解に皆さんに聞いてもらった『神に会おうと思えば庭の口を外へ出て見よ。空が神、下が神。』という御教えがありますね、まあ、これは金光教の言うなら神観ですね。又『眼には見えぬが神の中を分けて通り居るようなものぢゃ、畑で肥をかけて居ろうが道を歩いて居ろうが天地金乃神の広前は世界中であるぞ』教祖が神様を感じられる実感なんです。
朝露がいっぱい降りておる中を私共がその葉なり、笹なりを押し分けて、さわさわと音が聞こえてくる、その朝露が足元をぬらす、そういう実感、それを『神の中を分けて通り居るようなものじゃ』と申されているのですね。
教祖の神様の前にはもう空を仰がれ、天地を拝まれる時、いうなら森羅万象すべてが、天地の親神様が対象であるところの神様の姿に見えられた。又は神の声に聞こえてみえた。神様との交流、天地との交流がそのようにしてあっておったんだと思いますね。
だから天地が神様だと分かっただけでなくて天地をそのような風に感じれるところまで、信心を進めていかなければいけない。天地が奏でて下さるところのリズムにのった生活を私は信心生活だと思う。
だから、良きにつけ、悪しきにつけ、そのリズムに乗っての生き方ですから、実に楽しい。有難い。もう信心が楽しゅうてたまらんという人は、そういうところの体得ができておる人だと私は思う。
過去の一切が生きてくる道
金光様の信心をしよって私共の過去にね、あれはいらないとか、あれは困ったという問題のあるはずがない。それを生かし得なかった人は、本当に何十年前あげな事がなかったなら、と言うて何十年前のことを言うてくやまなければならん、又腹を立てなければならん。
信心とは過去の一切が生きてくるおかげを頂かしてもらうことだと私は思う。だから、これからとても、やはりそういう働きだけしかないのですから、「あれもおかげであった、これもおかげであった」というその時点で、すでにそれをおかげとして受けられる。いうならば、それを神愛として受けられるという事である。
叩かれても痛くても、それを神様なればこそと頂けた時に、叩かれたその時点で、もう有難いという事になってくるのです。
けれども初めからそんなにできるはずはありませんけども、段々その本当のことを稽古させてもらっておると、そこのところがわかってくる様になる。いわゆる「肉眼を置いて心眼を開けよ」とおっしゃるが、段々おかげを頂いて心の眼が開けてくるようになりますと、事の実相、実態というのが分かってくる。肉眼で見ておる間は、それは病気という形に見えたり、情(なさけ)けない問題として見えてくるのですけれども、心の眼をもって見るならば、それは神様にお礼を申し上げること以外にはない、という事になってくる。
それが一ぺんに開けるとは思われませんけれども、やはり稽古を、そこに焦点を置かしてもらわなければなりません。和賀心を目当てとすると云うか、和賀心を焦点にしていくとです、必ず心の眼が開けてくると私は思うです。
私の心の中に和賀心を、そして家庭に、そして自分の周辺に推し進めさせて頂くという事が、このようなおかげが受けられるんだという実証をお互いがして行かなければならん。
霊験は和賀心にあり
私が、最近思う事は、もう本当にお釈迦様でもキリスト様でも一応、金光大神のお取次を頂かれなければ本当の助かりにはならないと思うのです。
なる程、仏教の一生懸命の信心をしてです、それこそ「よしあしを捨てて起き上がりこぼしかな」ではありませんが、よしあしを捨てれるところまでは、難行苦行をさせて頂いたなら、もうそれこそ何もいらんという心の状態が生まれてくるでしょう。竜安寺にあるお手洗の石じゃないですけれどもね、「吾、唯足るを知る」という心が生まれてくるでしょう。
けれども、そういう心にならせて頂いたからと言うても、ただ自分が助かるだけでしょう。和賀心というのは、天地書附にもありますようにおかげが伴ってくるものです。御利益というものを軽視する人がありますが、軽蔑するならば軽蔑してよいけれども、果たして人間の一人一人にその真意を尋ねた時に、病人が治りたいと願わない者があろうか、貧乏しておる人が財のおかげを頂きたいと願わん者があろうか、人間関係でもつれておるならば、本当に、ここに平和な生活が出来るならば、と願わん者があろうか。教祖の教えにもありますように「天地の間に棲(す)む人間は神の氏子、身上に痛み病気あっては家業出来難し、身上安全を願い家業出精五穀成就牛馬に至る迄氏子身上の事何なりとも実意を以て願え」と。なんと慈愛あふれるお言葉でしょう。
願わずにおれないのが私達人間の本来であります。神のおかげを頂かねばここ一寸が動けぬのが私達であります。というておかげを頂くための信心ではいけません。実意を以て願うことは、一心に願うことは、天地書附にもありますように、和賀心にならせて頂くことを一心に願うのでなければなりません。
その和賀心におかげは願わんでも頼まんでもついてこなければならぬような天地の法則があるのです。
私共は、ただ和賀心にならして頂くことに焦点を置いていけばいいのです。
この和賀心とは人間の幸福の条件のすべてが頂けるというほどしの心です。それが金光教でいう和賀心なのです。
このように素晴らしい和賀心というものをどこの国々の人にも知って頂きたい、分かって頂きたいと思います。許されるものなら三味線、太鼓で宣伝して歩きたいような衝動にかられることもあります。
和賀心は教えの最高峰
私は、「和賀心学」なるものが出来なければならぬと思う。そして学問の上でも和賀心というものが体系づけられ、義務教育の中にも和賀心学なる教科があっていいのではないかと思うくらいです。
それは、なるならんは別として、人間の幸せというのは、金でもなければ、物でもない。頭が良いから、器量がいいからではない。というくらいのところまでは、明確にわかってほしいものだと思います。
それを、最近、ハイクラスの学者の人達が気づきだしたということは有難いことだと思いますね。
確かに人間の智恵や力でもって月の世界までも行けるほどしのことになって来た。ところが、それで人間が幸せになるのではない。ということに気付きだした。「それは心だ、これは心だ」と言い出した。といって「心だ、心だ」で幸せになるのじゃない。その心におかげが伴うほどしの心でなければならない。
それが和賀心である。教祖ただ一人がそれを体得された。和賀心は教えの最高峰といってよい。又教えのすべてがその和賀心にならせて頂くことのためにあると言っても過言ではないと私は思う。
和賀心というものをもっともっと追求し、研究して行かねばならない、そして自分のものにしていかなければならぬと思います。
この和の心というのは、普通で申します和の心ではなく、和というのは、不壊なもの、壊れないもの、どういう問題がおこってきても、この和の心が微動だにしないという心を教祖は教えられた。
勿論、賀の心とは祝い賀ぶ心と教祖はおっしゃっておられる、赤飯をたいて祝う時のような心、生き生きとほがらかに明るい、それこそ「お目出度うございます」と言いたいほどしの心なのである。
信心の稽古をさせて頂いて、しかもその和賀心を目ざさせて頂くとです、不思議にそれができる。なる程教祖の神様がね、「此方だけが生神ではない、みんなもこのようなおかげが受けられる、此方がおかげの受けはじめじゃ」と仰せられているように、世界総人類の者が生神を目指すということに、和賀心時代を創るということに目指さなければならないと思います。目指せば誰でもこのようなおかげを受けられるとおっしゃるのですから・・・・・・。
和賀心DAY
私は昨日、御理解の中にも申しあげたことですが、例えば母の日に赤いカ-ネ-ションをつけたりして、母の日を祝う。それが世界中にそういう流行をみているように、せめてこの三百六十五日のうちの一日でもよい、人間は和賀心にならねば本当の幸せにはなれないのだ、とわかり、今日だけは“和賀心の日”というような、いわゆる『和賀心デ-』というようなものがあっていいのではないかと思うですね。
それは、五百年、千年かかるかしれませんが・・・・・・。金光様の御信心させて頂く者はそういう素晴らしい高度の願いを願いとしていくところの精進が、必要ではなかろうかと私は思う。
まずだから信奉者から、まず教団人から、それをおし進めていく運動、それがそのまま天地金乃神の願いである。神の願い、いわゆる神願であると思います。
その神願成就のために私共、一人一人がその神の手になり足とならせて頂ける御用に使うて頂きたいという願いに燃えなければいけない。いわゆる神の願いと私共氏子の願いが一つにならせて頂くところまで信心を高めねばならない。
教祖が申されておられます『この方が祈るところは天地金乃神と一心なり』と申されるのは、一心不乱に願うという一心ではない。天地金乃神と同じ祈り即ち、一心同体という意味のものであります。
これは、教祖様だけの専売特許ではない、お道の信奉者の一人一人が天地金乃神と祈るところが一心というところになってこなければいけないと思うのです。
例えば、私共の祈りというものはそれこそ一しずくの水のようなものである。それが谷川に入り、川に、そして大海に流れ出る。一しずくの水ではあるけれども、谷川に落ちれば、谷川の水である。川に落ちれば、もう川の水である。大海に入ればもう一しずくの水ではなく、大海の水であります。
天地と一心とは、そのようなことになってまいります。言うならば、真実の願いをもっておる人は、願い(根賀以・ねがい)そのものの光に照らされてその願いは、願わずとも自然に成就される大みかげになって参るのでございます。
