土(どろ)の心
《御理解第8節》子供の中に屑の子があればそれが可愛いのが親の心ぢゃ。無信心者ほど神は可愛い。信心しておかげを受けて呉れよ。
土(どろ)より出でて土(どろ)に還る人間。だから、その道中とても、土(どろ)の心で大地を踏みしめて歩む信心をしたい。
教祖金光大神様は、明治の変革期に当たって「いまの世は、知慧の世。人間が、さかしいばかりで、身の徳をうしのうておる。世のなかに、一番きたなきは欲、算盤をはなせ。われが利口な、というて、細工をしてはならぬ。発明ぶることをすな。利口・発明・智慧・分別をだすな。世の世話をされ。世の世話をさって、身を神にまかせ」と人間の身勝手な生き方になってゆく社会に警鐘を鳴らされた。
信心する者も同様に、限りある人間の知恵で神様を推しはかり、観念で信心をしようとするなら、やはり同じような危うい思いを神様が持たれるのではなかろうか。そういう者を無信心者といわれるのである。それは丁度、大地から足を離して高上りをするようなものである。
教祖金光大神様は、どこまでも大地に根ざす信心を説かれた。それは、一切合切を根肥やしにしてしまう土のような心を自らの心とする信心である。そこに、日常の生活の中に神の声、神の姿をそこここに感じ、神様の働きをあますことなく受けていくことができるのである。
土の信心こそ、天地の道理を教え示す金光教の信心姿勢の根本である。(昭和53・7・2)
神様が栄養失調になっておられませんか
《御理解第七十四節》可愛いと思うこころが神心ぢゃ。
お宅の神様は栄養失調になっておられませんか。あなたの心も水枯れしてはいませんか。
生き生きとしたおかげがお宅に現われていないなら、お宅の神様は栄養失調も同然、と思わなければなりません。お嫁さんを、お姑さんを、また身近な他人を実感を持って祈れないなら、あなたの心は水枯れしているのだと気付かねばなりません。
親先生は、『無条件の大祓信行(おおばらいしんぎょう・・・現在の金光教の拝詞ができる前の祈念詞)は神様に御神飯を奉るようなもの、無条件の真心の奉仕が神様への最高の栄養になるのだから大祓信行は、一日も欠かすことなく貫くことがいる」と言われます。
貫くうちには、宅の神様が生き生きとしてこられます。自分の心も、みずみずしく躍動するようになってきて、ついには、私に悪意をもって迫ってくる人すらが可愛くてならぬようになってきます。
その可愛いと思う心が神心です。可愛いと言っても、孫だけは眼の中に入れても痛くないとよくいう、その可愛いとは違います。神心に通じる可愛いとは、赤の他人、自分の悪口をいう様な人でも「可愛いものじゃ」という心をもって祈れる心をいうのです。
お道の信心は、究極は神心にならせて頂く稽古ですから、為には、成程と思ったら、素直に行じていく以外にありません。(昭53・7・23)
幸福製造機
《信心乃心得》
一 何を食べるにも飲むにも有難く頂く心を忘れなよ
一 体(たい)の丈夫を願え
一 体(たい)を作れ何事も体(たい)が元なり
もしあなたが欲しているすべてのもの(健康、財産、愛、etc)が思い通りに、否、思い以上に必要に応じて頂くことができるなら、何とすばらしいことだろうか、とあなたは思うでしょう。
「笑う門には福きたる」とよく言われます。これはあながち嘘ではありません。天地の法則として、心の喜びには福を受けとめられる原理が実はあるのです。だからあなたの幸福は、あなたの心ひとつで製造されるといってもよいのです。そこのところを一農民であられた教祖金光大神様は、「地(心)が肥えておればひとりでにものが出来るようなものぢゃ」と農業の体験をもって言いあらわされ、そこを親先生は、教祖の教えを実験実証されたところから『心ひとつですべてを創る』とまで断言されるのです。ですから、私共は幸福の、いわば製造機をすでに持っているのであり、後はその使い方を習っていくだけなのです。
これは、今の日本の教育制度ではどこも教えてはくれません。心の研究に研究をかさねてきた宗教による他はありません。
とはいっても、最近は宗教に限らず、心のことを問題にしないものはありませんが、大半が精神修養的なものであったり、形にあらわれてのおかげを授けきれない宗教の、逃避場所として心を取り扱うものがほとんどです。またそうでないとしても、現実的幸福のあらゆる条件の伴う心の手立ては解明してはくれないのです。
それではお道の信心ではどういう手立てを説くのでしょうか。前にあげてある三つの教えからそのヒントを伺うことができます。つまり幸制を製造するような心をつくりたいなら、「何事も心が元なり、心をつくれ、為には心の丈夫を願え、願うからには起きてくる事柄は丁度、あなたのテーブルの前に並んだ食物のようなものだから、あれが嫌いこれはいやというのではなく、すべて有難く頂けよ」という頂き方をしていくことです。
これは心づくりの信心の根本原理です。豊かな物に恵まれたいなら、豊かな心になることですし、大きなおかげを頂きたいなら、大きな心にならねばなりません。好き嫌いを言えば栄養がかたよります。
ちょっとしたことに腹が立ったり心配になったりするなら好き嫌いを言っているようなものですし、心がまだ小さい証拠です。あなたの身の上に起きてくる一切のことを、有難く頂き栄養にして心の丈夫を願わねばなりません。そこから、神様が下さろうとされる幸福を充分に受けとめることになります。
神様は親ですから、人間が幸福になることばかりを考えて働いて下さっています。毎日の生活の中に起きてくる様々なできごとは、神様が心の栄養のバランスを考えて働かれ、調理して下さったものなのです。都合のよいことばかりではありません。辛(から)いものも苦(にが)いものもありますから、これこそ心づくりの栄養食品と有難く頂くところには、神様の有難い親心も分かってきて心も段々豊かに大きくなってきます。
今日、お話の途中で親先生は『くノ一(女)』と安心の『安』を神様からおしらせを頂かれました。
くノーとは女忍者のことで、変幻自在の術の使い手です。つまり苦の一、修行の第一は、先に言ったような様々な事柄を、それこそ心の栄養として変幻自在に有難く頂いていくことなのです。それが幸福製造機の動かし方であり、そこには自ずと心も肥えて来て、あなたの望む、いや夢にも思わなかった健康が、財が、愛、etcが得られて来、ついには、どんな時にも安心という大きなおかげが受けられるのです。
【注】この幸福製造機は、使い方によって不幸製造機ともなりますので御注意下さい。
一、きついきついと言うところには死神がよってくる。
二、不平不足に貧乏神がやって来る。
三、愚痴(ぐち)る心は運命を悪くする。(昭53・8・12)
末は大関か横綱か
《御理解第68節》神参りをするに、雨が降るから風が吹(ふ)くからえらい(疲れる・しんどい)と思うてはならぬ。その辛抱(しんぼう)こそ、身に徳を受ける修行じゃ。いかにありがたそうに心経(しんぎょう)やお祓(はらい)をあげても、心に真(まこと)がなければ神にうそを言うも同然じゃ。拍手(かしわで)も、無理に大きな音をさせるにはおよばぬ。小さい音でも神には聞こえる。拝むにも、大声をしたり節をつけたりせんでも、人にものを言うとおりに拝め。
昭和二十三年、日本が敗戦の痛手からいまだ立ち直れずにいた混乱の頃、終戦によって北京から着のみ着のままで引きあげてこられた親先生は、その日の食事に事欠くような生活の中にあっても熱烈たる真の信心に燃えられ、さらに一家の再興を願って博多の町に出られた。この頃より神様に向う心はいよいよ白熱化し、やがて神様より御神意を感得できるようになられた親先生は、その御指図のままに、今日は東に明日は西にと、行商をして回られる。着るものとて一年を通して夏服一着、破れカバンに破れ靴といういでたちで、一日足を棒にして商いをされる親先生。しかしその神様の仰せのままの商売はひとつも思わしくいかない。けれども親先生は少しの不平ももたれるどころか、帰って御神前に出、「今日も、けっこうな修行をさせて頂いて有難うございます」とお礼を申しあげると、どこからともなくたぎるような喜びと感動に涙が流れたと言われる。
そういう過酷なまでの御修行時代のある日、親先生はうだるような暑さの中に汗みずくになって、あい変らず売れない品物を持って帰って来られて家に入りかけると、親奥様の日頃にない強い声を耳にされた。子供たちを叱っている声である。「あれ程、五円のキャンディーを買って来るようにと言ったのに!」。入って訳を聞けば、今日しきりに、子供にアイスキャンディーをせがまれ、仕方なく「これで五円のキャンディーを買い、おつりは必ず持ってくるのですよ」となけなしの十円を渡したところ、五円のキャンディーを買わずに十円のキャンディーを買って来たということであった。「三人の子供達には、五円のキャンディーを三つにわけるより、できたら十円のキャンディーを一人一人に買ってもやりたかろう。それを叱らねばならない家内の心中を思う時、何と切ないことであろうか」と、その思いで神様の前に座られた。
しかし額(ぬか)づかれた途端、心中によぎったものは、「このように家内子供も一緒に修行してくれているのだ」という思いであった。
そう思えば思う程有難く、ただ有難涙にくれて、お礼申し上げるだけであった、という。
「四百四病のやまいより貧より辛いものはない」
神様はただ、今日は売れもせぬ行商に行け、明日は借金の断りに行け、と、これでもかこれでもかと試される。何が辛いといって借金の断り程辛いものはない。
今日もまた同じ借金の断りに行くことを命じられ、鬱々(うつうつ)とした心で電車を待っておられた。すると、たまたまそこにある知人が居合わせ、相撲稽古の見物をして来ての帰りだと言って、その稽古の様子を話される。それこそ、へとへとになって逃げる弟子をつかまえては投げ、ひきずっては土俵に立たせるという話であった。それを聞かれた親先生の心の中に、翻然としてひらめくものがあった。
「末は大関か横綱か、との神様の御期待があるからこその、この修行だ!」との悟りであった。うって変って意気揚々とした心で借金の断りに行かれる親先生。それを待っていたのは、「大坪さん、もう遠い所を来んでもよかばい。お金はあなたのできた時でよいから」との思いもかけない返事であった。
「その辛抱こそ身に徳を受ける修行じゃ」と教祖は教えられる。
苦労と受けずに修行と受けられるそのつどに、翻然と心をひらき、有難しの真情を神様に通わす時には、修行が終るだけではなく、今まで不自由していたものに不自由せずにすむお徳が受けられる。しかもそこから広がりに広がる繁昌のおかげが受けられることを実証しての親先生の今日である。
辛いことは辛い、苦しいことは苦しい、けれどもそこを歯をくいしばっての辛抱ではなく、今こそ神様の、先を見越してのおきたえを頂いている時と、神愛、神願有難しで受け、ただ苦労を通り抜けるというのではなく、それをさかいに、二度と不自由をせずにすむという身に徳を受ける修行でありたい。(昭53・11・24)
和賀心学
《御理解第99節》無学で人が助けられぬということはない。学問はあっても真(まこと)がなければ、人は助からぬ。学問が身を食うということがある。学問があっても難儀(なんぎ)をしておる者がある。此方は無学でも、みなおかげを受けておる。
急速度の学問の向上がもたらした目をみはる程の科学技術の進歩。人間が人間らしく生活ができていくためには文化の向上が必要なように、人間の幸福に欠くことのできない学問。だが、学問を身につけるだけで、果して人間は幸福になりえるだろうか。
教祖様は、「学問があっても真がなければ」といわれ、「学が身を食う」とも仰ってある。学問を身につけるだけでは足りない。いや、学問を身につけたばかりにかえって、幸福になることの邪魔になってしまう結果にさえなりかねないのである。どうでも学問をする根本に、真になる研究、有難くなる勉強がいる。
学べばいよいよ有難くなれるという和賀心学。
和賀心学は、天地と十全に交流でき、人間が真実、幸せになれる心の学問であり、又、教祖の教えのすべてが和賀心になるための手立てなのである。その和賀心には、人間の、幸せの条件のすべてが自ずと天地から与えられ、日勝り月勝り年勝りに繁昌の一途をたどる事ができる。どうでも、そういう和賀心による幸せに恵まれたおかげを、まずは私たちが現わし、自分の周辺に広げていかねばならない。
和賀心時代を創る運動とは、そういう和賀心をもって、世界総助けの大願を成就せんとする運動であり、和賀心時代の到来こそ、天地の親神様が久しく待望し続けてこられた御悲願なのである。
和賀心こそ早急に、どれだけの人材、財をかけても研究しなければならない今日の最大事である。
【注】和賀心
お道で最も大切にされる天地書附に「おかげは和賀心にあり」とあります。
和賀心とは和(やわ)らぎ賀(よろこ)ぶ心。和とはどんなことにもこわれない和であり、賀とはどんな中にも「おめでとう」といえるほどの祝い賀ぶ心です。(昭53・11・27)
生神の開発
《御理解第46節》痛いのが治ったのがありがたいのではない。いつもまめながありがたいのぞ。
「ここまでは分った」と、お道の全信奉者がこの一線上までは出なければならないこと。
柿の種を二つに割ると、中にはすでに柿の芽がはぐくまれているように、人間も生まれながらに生神の性(しょう)を持っている。だが、柿の種も放置していては、芽を出すことは出来ないように、人間の心も同じこと。放っていては我情がつき我欲がついて、生神の性はかくれてしまい、ついには枯れてしまう。
柿の種が、天の陽光とおしめりを受け、大地のぬくもりによって初めて芽を出し、地が豊かであればある程豊かな実りを得るように、人間の生神の性も、天の心、地の心、水の心ではぐくみ育ててこそ、生神の芽は開花してくる。
神様は、生神の芽を育てるために、深い親愛をこめて、様々な問題や事柄を与えて下さる。その問題や事柄との対決において、ここは天の心で、ここは地の心で、ここは水の心で、との精進がなされる時、いつの間にか生神の性は芽吹き、生き生きと育っていくのである。そこに、痛いのも有難い、何時も壮健ならなお有難いという、四六時中有難い世界に住めることになる。(昭53・12・3)
妖しい迄の土(どろ)の心
《御理解第56節》日にちさえたてば世間が広うなってゆく。ひそかにして信心はせよ。
親先生の半生は、いつの場合も分が悪く縁の下の力持ちであられた。けれども親先生は、そういう自分の運命を愛してこられた。黙って治め、自分が表面に出ようというのでなく、神様が御承知の世界に日々生き抜いてこられた。
これがひそかな信心である。自分は百働いても、人には五十、三十にしか認めてもらえない。しかし、それでも有難いと感じられる心。これがどんな場合にも御礼の言えれる妖しい迄の土の性根である。
そういうひそかな信心を今日まで貫いてこられた親先生に、神様は、「だからこそ、神と親戚付き合いが出来ておろうが」と言われた。
自分をだせばおかげの分野は狭くなる。人間に認められるよりも、神様に認められる生き方が信心である。そこにおかげの分野が広がり世間も広くなってくる。
一、貧乏くじは宝くじ
一、ふられたふの字のまんのよさ ふられたおかげで、というおかげが頂ける。(昭53・12・12)
天地金乃神様の御心は心行で悟るべし
《御理解第52節》信心する者は驚(おどろ)いてはならぬ。これから後、どのような大きな事ができてきても、少しも驚くことはならぬぞ。
何とかしておかげを受けたい、神様をわかりたい、煩悩からも解放されたい、と思えば思う程、今までは、その為の修行といえば、わが身を痛め、あられもない行をする外、手立てがなかった。それ故に、過去のあらゆる宗教に表行(わぎょう・難行、苦行、戒律等)はつきものであった。茨の道を歩くのが信心修行であると観念し、表行の厳しさを競い合い、表行できないものは、宗教家として資格のないものといわれる向きさえあった。
確かに表行によってこれが神のおかげであろうか、これが神の実体だろうかというような働きも受けてはきた。しかしそれは、我身を苦しめてでもという健気(けなげ)な心に、あるいは強迫にも似たがむしゃらな心に神様も仕方なしに下さったものなのである。
だが神様から授かった身を痛めて、どうして神様が心から喜んでくださるであろうか。
天地の親神様が喜びに喜んで働いて下さり、神も助かり氏子もたちゆく世界を人の世にはじめて顕現された教祖金光大神。
その教祖様のみ教えをひたすらに行じぬかれ、日々、金光大神の世界を究めていかれる親先生。
そこには、はじめて聞く天地の道理、はじめて知る天地の親心、はじめて歩む天地の大道があるのみ。
そこでは、もはや表行はいらない。いや表行は全廃。示される天地の道理に耳を傾け、天地の大道を歩む、限りない道だけがあるのである。
教祖様もはっきりと「表行よりは心行をせよ」とも「水をかべるけいまことじゃ、かべらんけいまことでないとはいえぬ。喰わずの行をするのは金光大神は大嫌じゃ」とも断言されている。それにもかかわらず、過去の宗教観念にとらわれた眼で見てきたために、お道でも表行は否定できないできた。
ここに合楽理念が生まれ、教祖様のみ教えの神意が明らかになった今、お道の信心をするものは、表行は全廃し、心行に徹して、金光教の独自の世界、天地と交流し合い、天地と共に極りなく人間が真実幸福になっていく世界を深めていかねばならない。
心行とは、寝てもさめても心にいつも神様をかけつづけること。だからいつどういうことがあっても、例えば、これが驚かずにおられようかという事柄に直面しても鷲かんですむ程のもの。いやむしろそのことに有難いとお礼の言えれる信心ができていく。これこそが力となり神様の御信用も自ずとついてくるのである。
わが身をどれだけ痛めても肉体には限りがある。しかし心行には限りがない。心ひとつで世界を包み回す程のこともできていくのである。そこに心行の偉大さがある。
限りない心行一筋に取り組んで、限りないおかげに浴していきたい。
【注】
表行をせずして開けた宗教はないと言われている。だが表行にては、金光大神の信心の真の体得はできない。心行一筋にこそ金光大神の独自の世界は開かれる。以下の教祖様のみ教えをもって悟るべし。
一、「世に水をあびて神を祈る人は、こりをとらずにこりをつけるのじゃ。おかげにならぬぞ。こりは寝床(ねま)の中でもとりのぞかれるぞ」
二、「手で香をたいたり、断食をしたり、寒中にこりをとったり、すきなものを断ったりするものがあるが、津川さん、あなたも段々断っておいでなさろうが、そういうことはやめて、神さまと約束をかえるがよろしい。そういうことは行ではない。迷いというものじゃ、これからは喰われるがよい。そのかわり、心をかためて、どこまでもかわらず一升の信心でも八合の信心でもつづけてゆくのが大事じや・・・」
三、「世の中に表行は段々する人があります。寒行しておがんで歩行しておる人もあるが、心行というて、人を不足に思わず、ものごとに不自由を行とし、家業をはたらき、身分相応をすごさぬよう倹約し、だれにも云わずにおこなえば、これ心行なり・・・」(昭54・2・1)
ただ今、神様と恋愛中
《御理解第4節》此方(このかた)金光大神あって、天地金乃神のおかげを受けられるようになった。此方金光大神あって、神は世に出たのである。神からも氏子からも両方からの恩人は、此方金光大神である。金光大神の言うことにそむかぬよう、よく守って信心せよ。まさかの折には、天地金乃神と言うにおよばぬ。金光大神、助けてくれと言えば、おかげを授けてやる。
〽思い出すよじゃ 惚れよがうすい 思い出さずに忘れずに
この神様は情念の神様。
「神からも氏子からも両方からの恩人は此方金光大神である」と言われるが、一人の氏子を恩人とまで賞讃される神様の心情を思う時、そこにあふれんばかりの情念をたたえておられるのが感じられる。
かつて若先生が、金光教学院で修行中の時、親先生あての手紙の中に「ただ今、神様と恋愛中」とその心情を表現しておられた。神様を憧念する氏子の心情と、神様の心情とが通い合う時、そこには押さえようにも押さえきれない、神と氏子の喜び合いの世界が生まれ、いよいよ自分の心も生き生きとはずみ、神様もまた踊り出てくるような働きを現わされてくるのである。
この神様を他人行儀の神様や、ただの病気治し、災難よけの神様にしてはならない。天地の間にある一切を御支配される偉大な神様であると同時に、氏子の上にこまやかな情念も使っていかれる親神様であることを、お道の信心をするものが、日々の生活の現場の中で現わしていかねばならない。
例えば芝居でも、すばらしい原作者とすばらしい演技者、それが足ろうてはじめて名場面も名舞台も生まれるように、天地金乃神様の御心の世界をはじめて現わされた、金光大神というすばらしい原作者を頂いているのがお道の信奉者である。
教祖の教えが原作とするなら、合楽理念は、丁度あますことなく微に入り細にわたって表現したシナリオのようなもの。演出、監督は親先生、私共信奉者はいわば演技者である。
本気で原作を理解し、シナリオを身につけて親先生の言われることを守っての演技なら、神様が奏でて下さる天地のリズムという伴奏に乗れていくから、それこそ大向うから声がかかってくるような名場面も現わすことができていく。
まずはこの神様が情念の神様であることを分かり、その心情にふれるためには、向う私共も、頭脳ではない、テクニックでもない、心構えこそが大切である。心がまえとは、心が前ということ。理屈や理論を考えるよりも、心をこそ前面に出して素直に神様に向うところに、神様との交流が始まってくるのである。
天地の親神様をあますことなく十全に現わせるような信心の名優を目指して行きたいものである。(昭54・2・5)
