陽光

教会前の桜並木もすっかり冬支度が整ってきた。木々の間からこぼれ落ちるものは暖かな陽の光だ。春はその枝いっぱいに花をつけ、夏には強い日差しをさえぎるほどの青い葉が茂り、秋には、それはそれは鮮やかな色とりどりの紅葉!そして今は全身に冬の光を受け、並木道にも暖かな光を落とす。
そこにあり続ける桜並木は、天地自然の底力を無言で語る。年々その迫力に感服するばかりだ。

おかしなご縁

食べ物の記憶は割と鮮明にあり、自分の食い意地に苦笑いするのが初めて合楽教会に行った時のこと。小学校2年生だったか、でっかい建物に入り絵本で見るような重厚な応接間に通され「父は何か間違いをしているのではないのか、ソファに座っても良いのか、怒られはしないか」とビクビクしていた。そのうち誰かが入ってこられ上座に座られ父と何か話を始めた。怒られずほっとした。

そのうちエプロンを着けた女の人が来て、テーブルの真ん中に置かれた菓子器、そこには銀色のセロファンに包まれた、いかにも子供心をくすぐるお菓子がこんもりと盛られていた。「これは誰に出されたものなのか、私たちか!?いやいや落ち着け、そんなはずはない、こんな立派なものを頂けるはずは無い・・・」私の心はそのお菓子を前に動転し心臓がドキドキするほどだった(誇張なし)。その様子に気がつかれたのか、上座の人が女の人に言って私と兄姉に一つずつ取り分けてくれた。それからが至福の記憶、銀のセロファンをそっと開けると、爽やかな甘い香りが鼻腔をくすぐり取り出せば、レモンの形をして薄いレモン味のホワイトチョコがふわふわのスポンジにコーティングされた洋菓子。甘くて優しくて、今までで最高のお菓子の記憶になった。

あれから40年近く経つ。あのレモンケーキは食いしん坊の私と教会との縁を取り持った、かけがえのない一つだ。

日常

物事を思い通りに進められたら気持ちがいい、が、大体そうはいかない。
わが教会長は40年ほど前から手足が動かない。しかし五感と内臓は健康そのもので痛みやかゆみはある。日中は車椅子で御用を勤めているが身じろぎができないので、当然あちこち痛みが来る。その度に私か主人が呼ばれ、上体を前や横に倒したり腰に手を当てたりなどの手伝いをする。そして不思議なほど、こちらが何かに取り掛かったと同時に「倒して」と声をかけられる。調理を始めたり、米を研ぎ始めたり、雑巾を濡らした直後だったり。
教会長と共に生きて17年、いつも気持ちよくお手伝い出来ている訳もなく「あと5秒早く言って下さい」と不平を口にすることもままある。
「成り行きは神の働き」
生活のささいな中に稽古の材料は転がっている。そこに神様が渡したい本当のおかげがあると分かっちゃいるけど〜、自分の都合優先。昔師匠の書いたものに「二つの選択肢があるなら自分にとって不都合な方を選ぶといいね、神様の思いに近いよ」とあった。そんな師匠に助けられっぱなしの30年弱、若い頃の支離滅裂な自分には戻りたくもないが、弟子ですと名乗れるほどではなく。
まずは教会長の言葉を少しでも気持ちよい心で受けよう!なんと言っても一番ご修行されていることは間違い無いのだから。

お供えもの

教会は基本的には信者さんのお供えで一切がまかなわれている。お金にしろ物にしろ神様への御礼から奉られるので、教会の人間は心してそれらを扱わせて頂く。
ここは東京の教会なので地方ほどお野菜などはお供えにならないと思っていたが、季節ごとに自家菜園で採れたものを数人がお供えされる。なので同じものが大量に集中することもよくある。そこで修行生の頃の経験がものを言うわけだが、大家族で一気に消費するわけではないので年々工夫の幅も広がってくる。冬近くになると里芋や人参がよくお供えになるが、これはお正月の煮物用に切って冷凍しておく。レンコンも同様。最近は葉物があちこちからお供えになり、月例祭で神前に供えた後、ほとんどをカット野菜にして冷凍保存した。面白いことにその数日前、冷凍専用の袋がたくさんお供えになり、その大きさに合わせて作業もはかどった。
「お供えものとおかげは、つきものではない」とは教祖さまのお言葉だ。合楽(あいらく)教会の初代教会長もお供えにはとても厳しいと聞いている。私は信者さんの真心のお礼が、神様に真っ直ぐ届くよう、ただコツコツと取り組むのみである。

第六感!?

4年ほど前、夏祭りに行った子供が金魚を2匹持ち帰った。そう長く持つまいと思い、エアポンプはもちろん、水草ひとつ準備せず、使わない桶に入れておいた。そして現在に至る。
お玉ですくうのも無理なほど大きく育った彼らは、もはや金魚というよりはフナのような出で立ちで、早朝には餌をせがみ食事を与えると喜びを現すように泳ぎを始め、食事が終わると少しずつ動きが鈍くなり、昼頃には2匹寄り添って桶の底にじっとしている。判で押したような生活ぶりは、なかなか教会向きだなと思う。
ところが今年昼頃から普段にない動きをした日があった。不規則に動き回り落ち着かない様子で、翌朝食事の要求もなく寿命が来たかと思ったが、その日に北海道で地震が起こった(9月6日・北海道胆振東部地震)。その後平常の生活に戻ったが、先月、和歌山で震度4の地震が起こる前日も同じく行動が不規則になった。偶然かもしれない。しかし夜店の金魚だからと言って天地自然の力を感じないとは言えない。
このことがあって以来、「これ以上(体が)大きくなったら入れ物がないよ」と憎まれ口ばかりささやくのはやめた。自分が持たない第六感をこの子たちは育んでいるんだなと、毎朝拝むような気持ちで見る・・・それにしても、いったいどこまで大きくなるのだろう・・・。