ありがとうございます

世界と言わず日本の中でも小さな宗教団体、金光教。あっと驚くような奇跡が起きた時代や、先生がいたこともあったらしい、私は知らないが・・・。強烈なことはなかったが、御縁を頂いて30年、この宗教に出会えたことに感謝している。

教祖様は戌の年生まれ、素直な性格で信仰心と親孝行心を持たれていた方。一方私は亥の年、疑い深く悲観的で考え浅く生きていた。嫌いな言葉は「猪突猛進」。合楽教会にめぐり会い世界が変わった、そして今は自分を変革させている真っ最中。

はじめたばかりのホームページ、中身はまだまだですが教会と共に内容を深めてまいります。今年出会えましたこと、心より御礼申し上げます。合掌。

冬休み

子供が通った小学校は昨日終業式、冬休みの始まりだ。ひょんなことから毎朝「スクールゾーン」の看板を出すようになって8年、子供の卒業と共に誰かに引き継ぎをと役員さんにお願いしたが、しばらくしても頼める人がいない様子・・・、継続しますと伝えた時の会長さんと役員さんのホッとしたお顔は忘れられない。このくらいは地域への奉仕と思いつつも、休みの日はホッとする。

この看板通称「うま」と言う。実際横をすり抜ける車も多く役に立っているのか甚だ疑わしく思うこともあった。しかし8年の間に3回ほど「うま」は車にひかれた、とても頑丈なのに『ぐにゃり』と曲り人の力では少しも元に戻せない。倒しただけではなく、その上を通過した跡もあった。子供たちで無くて良かったと心底感謝した。

新学期までしばらくお休み。「うま」様、来年もがんばりましょう。

えっさエッサと

年末だと肌で感じることの一つに、神殿に収まらないお供えが廊下に置かれ、片側1車線状態になることだ。一年間の御礼の品々を見るにつけ教会長が毎日休むことなく、御結界奉仕を務められたことに畏れ多さを感じる。

六地蔵という昔話がある。貧しい老夫婦が年越しを前に餅の一つでもと思い、笠を編んで売りに行く。年の瀬の町はせわしなく、笠を売るおじいさんに振り向く人はない。降りしきる雪の中、とぼとぼと来た道を戻るおじいさんの目に寒そうにたたずむお地蔵さんが六体。被った雪を払い、売れなかったもので恐縮ですがと笠を被せ、足りない分は使い古しで済みませんと自分の手拭いをすっぽりと被せた。

帰り着きおばあさんに売れない笠をお地蔵に被せたと伝えると「それは良いことをなさいましたね。ついた餅より心持ち、白湯でも飲んで休みましょう」と、何もない年越だが二人は穏やかに新年を迎えようとしていた・・・なにやらえっさエッサと音がする。外をのぞけばお地蔵さんが海川山野種々の食材や金銀財宝を山のようにして夫婦の家の前に運び、その後二人は幸せに暮らしましたとさ・・・。

昔話はおじいさん(男性)が主役のことが多い。しかし結末の良し悪しにつけ物語の鍵となるのはおばあさん(女性)で、中でもこのおばあさんはピカピカに輝く存在だ。「良いことをなさいました」なんて言えます?思うに教会長の心の内ではこういう精進がなされているのだろう。お供えは地蔵様が運んできたもののように見えてしょうがない。ちなみに私なら「あなた今晩何を食べるの!」なんて叱責しそうでこわい。このまま「舌切り雀」のおばあさんにならぬよう日々心の内を改めよう、今年の汚れは今年のうちに。

 

進撃のM

桜やドウダンツツジは葉を落とし、すっかり冬支度の亀有桜通り・・・、と言いたいところだが年越し前に最大の課題がこの教会を含む一局に訪れる。それは形を変えいたるところに入り込み、逃げようのない住人を途方に暮れさせる、太古より存在し化石と言われる植物、その名は『メタセコイア』・・・。
道路の向かい側、都営住宅にある三本の彼らはトップスターのごとく大トリで派手に落ちてくる・・・と言うより降り注いでくる。区内にある都立公園には1,500本のメタセコイアの立派な林があり、深閑として威厳すら感じる素晴らしいものだ。しかしここは住宅地・・・、北風吹きすさぶ朝玄関を開けると、辺り一面オレンジ色のじゅうたんが!メタセコイアの葉が行き場なく風に巻き上げられ徹底的に細分化され、舗装された道路に、歩道のブロックの目地にと入り込み、竹ぼうきで掻き出そうとするが手強い。近所の方はこの時期30分早く出て黙々と作業。
桜は葉も花びらも掃除すら情緒的だが、メタセコイアは力作業で、なんの感慨もない。
メタセコイアには当然なんの責任もない。人間の事情で不平に感じるだけだ。それでも毎年戦々恐々とこの時期を迎える。完全落葉までいかに和賀心を創れるか、それともブツブツ不平で終わるのか、これはホントに難題だ。

やせがまん

生活の折々に「がまん大会」のようなことをする。暑いとき寒いとき、包丁で手を切った
とき、頭をガツンと打った時などなど。
今年は寒が緩く用意したストーブは部屋の隅でお地蔵さんのようにたたずんでいた。そうなるとがまん大会開始で、朝だんだん寒さが足元から押し寄せても「なんのこれしき」と意地でも暖を取らない。他の家族がいる時はそんなことに巻き込まないが、大体毎年毎季節私1人の意地の張り合い。
ところが先日、教会長に師匠のお姉様ご夫妻から届いたメッセージに「・・・寒さを我慢するのは徳を受ける修行にはならないから暖房を入れるのですよ・・・」とあった。やせ我慢と辛抱は違う。わかっちゃいるけど・・・これはきっと私の妙な性分なのだ。それにしても徳者の言葉は的確で、その内容は暖かく胸に響く。
実のない「がまん大会」。我ながらいつまで続けるのかと思うが、素直になれない人がどうしたら神様のお働きに添えるようになるのか。我が身を通してこれからも不毛な実験は続く。