えっさエッサと

年末だと肌で感じることの一つに、神殿に収まらないお供えが廊下に置かれ、片側1車線状態になることだ。一年間の御礼の品々を見るにつけ教会長が毎日休むことなく、御結界奉仕を務められたことに畏れ多さを感じる。

六地蔵という昔話がある。貧しい老夫婦が年越しを前に餅の一つでもと思い、笠を編んで売りに行く。年の瀬の町はせわしなく、笠を売るおじいさんに振り向く人はない。降りしきる雪の中、とぼとぼと来た道を戻るおじいさんの目に寒そうにたたずむお地蔵さんが六体。被った雪を払い、売れなかったもので恐縮ですがと笠を被せ、足りない分は使い古しで済みませんと自分の手拭いをすっぽりと被せた。

帰り着きおばあさんに売れない笠をお地蔵に被せたと伝えると「それは良いことをなさいましたね。ついた餅より心持ち、白湯でも飲んで休みましょう」と、何もない年越だが二人は穏やかに新年を迎えようとしていた・・・なにやらえっさエッサと音がする。外をのぞけばお地蔵さんが海川山野種々の食材や金銀財宝を山のようにして夫婦の家の前に運び、その後二人は幸せに暮らしましたとさ・・・。

昔話はおじいさん(男性)が主役のことが多い。しかし結末の良し悪しにつけ物語の鍵となるのはおばあさん(女性)で、中でもこのおばあさんはピカピカに輝く存在だ。「良いことをなさいました」なんて言えます?思うに教会長の心の内ではこういう精進がなされているのだろう。お供えは地蔵様が運んできたもののように見えてしょうがない。ちなみに私なら「あなた今晩何を食べるの!」なんて叱責しそうでこわい。このまま「舌切り雀」のおばあさんにならぬよう日々心の内を改めよう、今年の汚れは今年のうちに。

 

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