一蓮托生

ここにきて信者さんからの抜き差しならぬ大事なお届けが続いている。そのような中、この数日、私、そして家内と立て続けに体の上に修行を頂いた。今月28日には布教25年の御大祭、子供たちも、それぞれ年度の変わり目で猫の手も借りたいような中、「何でこんな時に・・・」と言いたくなるような思いに駆られそうになった。しかし、その時ハッと気がついた。「ここで不足を言ったり、心を崩すようなことがあっては大事なお届けをされている真っ只中の信者さんたちに響く」ということだ。すぐに心を神さまの方に向け直した。
私たち教会の者の心の有り様は良きにつけ悪しきにつけ、そのまま信者さんの上に反映されてくるということ、そして信者さんが大事な局面にある時、神さまはせめてもの修行を私たち教会の者に求めてこられるということ・・・、これは18年の教会生活を通して切実に感じさせて頂いてきているところだ。
直信先覚のような荒行は出来ないが、せめてこれぐらいの修行は不足を言わずに黙々と頂いていきたいと改めて思う。

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